なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

心がバランスしない

人を100%信じられるというやつほど信じられない。他人と自分の考え方が異なるのはあたりまえで、誰かの言うことを全面的に受け入れることは自己を全面的に否定していることであり、そんなことを続けていればどこかで爆発するに決まっている。なので、たいていは一定程度の距離感をもって付き合っていて、自分のなかで線引きをして、自分を守るために、許容でできるところは受け容れ、そうでないところは流している。つまり、流していないという奴は嘘つきだから信用できない。
ビジネスでは当然のことながら、利害関係のあるプレーヤーが対峙し、闘っているわけだから、win-winというきれいごとは側面的な解釈に過ぎず、部分的最適解に過ぎない。例えば戦略的提携というかたちは、ある部分だけの協力関係でそれ以外は譲れないという典型かと。最大限の譲歩ラインは誰にでもあり、それを無視して度を越した要求をしてくる相手、情に訴えかけて押してくる相手は、とてもやっかいで手に負えなくなる。契約でラインを引くか感覚的な相互理解とするかはさておき、結局は、やることとやらないことをうまく線引きをするというのが、事業そのもので、日々の仕事なのかもしれない。
世の中には、騙し合いとまでは言わないが、そういう環境に身を置いて平気なタイプとそうでないタイプがいる。メンタリティの向き不向きはある。平然と自己利益の最大化をやってのけるやつは強く、良心の呵責に耐えきれず、譲歩してしまうやつは、足元をすくわれる。相手から奪うことに対して鈍感になれるか、自分が正しいと信じきって自分に寄せられるか。そこはシビアにでる。個人的にはいわゆる「仕事がデキる」と言われる人ほど厄介で面倒くさくて、友達としては付き合いたくないタイプであるように思える。外から見ている分にはいいが、近付けば近付くほど自分が侵食され、ストレスがかかる。
ところで「本音は違う」とかいう表現をすることがあるが、本音とは何なのか。突き詰めると、じつは自分でもよくわかってないないことではないだろうか。言葉にしたり、思考することと実践することは違う。どう思っていようが、起こったことは確かであり、その解釈はそれぞれ。ある人はその行動のウラにはこういう考えがある、と解釈するし、また別の人はその行動をさせたのは自分の根回しだと信じている。そして本人でさえそれに気づいていない。それでもうまくまわっているのが社会だとすれば、交渉に費やす労力や時間は非効率なのに、なぜなくならないのか。実践は感覚的である。

意思決定とガバナンス(続き)

社長は、顧客、従業員、経営者(役員)、株主の幸福量が最大になるように経営すべきだと思う。顧客や従業員が少ないうちは、社長の独断で会社だけがハッピーになるよう意思決定しても全体としての幸福量は保たれるかもしれないが、顧客や従業員が多くなるにつれ、売上は確保しても、周りのステークホルダーの不満をカバーしきれなくなり、全体の幸福量が落ちる、という局面がでてくる。一時的な不満であれば、利益がでれば解消することもあるが、慢性的に不満を抱えると組織の崩壊につながるリスクが高まる。小さな不満が日々の業務に影響し、積み重なってお金に響く。社内の雰囲気は誰もが感じ取るもので、その影響は無視できない。金銭的な意味だけでなく心理的な投資も、回収できないとマイナス方向に回転する。

人に頼るという行為は組織としての自律性を損なうし、外部の責任をとらない人間に主導権を握られるというリスクがある。恩は買わないほうがよい。小さな組織では、自分たちだけではどうしようもないのは事実。でもできるだけ自由の身でいないと会社の根幹を揺さぶられる。

「マネーの拳」はおもしろかった。ケンの名ゼリフ。

「商売の世界には道理があり、感情を優先すれば理屈が曲がり、理屈が曲がれば道から外れる。そんな商売は必ず失敗する。俺は人を幸福にするために商売している。」

「人の心という利息ほど高いものはねえ」

「自由を差し出したら二度と戻ってこねぇ」

このほかにもたくさんあるけど、ぼく個人としてはケンの資質に掴まれた。常に相手の思考を先回りして準備していること。本音と建前を切り替えるタイミングが交渉相手より早いこと。ボクシングのようにリングの上で正々堂々と闘うこと。正面突破。自分以外は信用していないこと。自分だけを信じているやつと組むこと。会社として外部に頼らない路線を貫いていること。お互いの思惑が違うのは見抜いたうえで、使えるところを使っていること。すぐに壊れる信頼や信用でつなぎとめていないこと。流動的な人間関係を前提としていること。会社という箱は、たくさんの異分子を包含しながら成り立たせなくてはいけないものだとつくづく感じた。ストーリー的には、個人の感情だけで動いていたあの井川さんが、商売の本質みたいなものを自分なりに見出して、決断したところがハイライト。

「あんたサルには一生敵わないわね」

補足)「回りくどい話はやめようぜ。あんたウチの会社を買収したいんだろ?」こんな交渉に憧れる…

自分に嘘をつかない強さ

人間は本心と言動がズレるとなにかしら不具合が起きるよう設計されているのかもしれない。交渉ごとはほんとうに胆力が試される。たいていの交渉はどちらも正しい主張だからそこにどう折り合いをつけるか。結論がゼロイチだとすると粘ることの意味はなにか。どこにこだわっているのか。少なくとも金ではない。金は単なる要素で手段。最後は結局思いの強さ。自分はあるいは会社として何がやりたいのか…これに尽きる。

製品の違いは文化の違い?

何かができなかったとき、アメリカではデバイスのせいにする(無理だとあきらめる、誰がやってもできない)。日本では自分のせいにする(粘り強くなんとかがんばる、技能が劣っている、根性論)。こうした文化的な違いによって、つくられるデバイスが変わるし、その評価も変わるのかもね、という話。

バイス起因だと、誰もが簡単に使えるユニバーサルなデバイスが出てきやすいし、ユーザー起因だと、技術が向上しやすい(なので、日本人はおしなべてみんな器用だから、技術が高いという前提で作られる日本製品もある)。
製品評価の厳しさ、試験データの解釈も、イメージしているユーザーによって変わってくる。同じデバイスで同じデータが出されたとしても、使う側の環境や技能が異なると、そのデータの解釈が変わる。それを良しとするのか、という判断は、使う人の技術をどこまで求めているかによって変わってくる。ユーザーがぽんこつなら厳しい条件のテストが必要だし「これくらいはできるだろう、できて当然」とするなら、そこまで厳密なテストは必要ない。結果的にはどちらも良しという判断だったとしても、その懸念点がイメージしているユーザーによって変わる(わかっている人にはほとんど指示しなくていいが、わからない人には細かいところまで指示しなくちゃいけない、というのに近い)。
リスクベネフィットの考え方として、薬なんかは、たとえ1パーセントの人にしか効かない薬だったとしても、1パーセントの人には効くのだから、1パーセントの人に用途を限定して世の中に出すべきだという考え方があるらしい。条件付きで認める。リスク回避のために限定するのはわかるけど、実際には全ての条件をクリアすることなど不可能なので、どこまでテストするかという厳密さが環境やユーザーに依存してしまうことは避けられない。

主観的な合理性

重要なことは人によって違う、人に動いてもらうためには、自分にはわからないが、そう思わせている背景要因を推測することが大事だ、という趣旨のことを書いたばかりだけど、内田先生が似たようなことをおっしゃっていた。誰しも主観的な一貫性があり、それを探ることが知性であり成熟であると。結婚や恋愛もよくわからない人に対する理解を深めるいう意味では「成熟」が必要か。仕事ではなくプライベートな事案で強制力がないなかで、そこまでして手に入れたいと思えるか、という大前提はあるけども。


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「恋愛は幸せの必要条件なのか?」
ここで大事なのは、女だから折り合いをつける必要があるのではないことだ。性別に関係なく、人として成熟するためのメソッドに近い。
配偶者が示す自分には理解できないさまざまな言動の背後に、「主観的に合理的で首尾一貫した秩序」があることを予測し、それを推論するためには、想像力を駆使し、自分のそれとは違う論理の回路をトレースする能力を結婚は要求します。−−内田樹「呪いの時代」
結婚(恋愛含む)は、相手の中にある「自分とは異なるロジック」を、知恵をふりしぼって理解し、予測を立て、折衝していく営みだという。
そしてこれは、恋愛以外の場に応用できるスキルでもある。
一見するとランダムに生起する事象の背後に反復する定常的な「パターン」の発見こそ、知性のもっとも始原的な形式だからです 。 −−内田樹「呪いの時代」
他者と共生する中で得る知見は、森羅万象への理解を深め、解釈を変え、打つ手を変えせしめるのかもしれない。それが成熟のひとつの有り様だろう。
結婚や恋愛が成就すれば、必ず幸せになれるわけではないが、そこで得るスキルは人生を豊かにする。そういう話だ。

(引用)https://note.mu/yuuuuuiiiii/n/n588b75f204fe

 

意思決定とガバナンス

ステークホルダーが少ないという意味ではプライベートな意思決定のほうがイージーかもしれない。例えば、結婚なんて自分と相手との契約だから、双方でしたいと思えばすればいいし、したくないと思えばしなくていい。政略結婚とか狙うなら話はべつだが、純粋に好きな人と一緒になるという至ってシンプルな問題で、自分の気持ちを最大限に尊重してよい決断のひとつだと思う。

一方で、組織における意思決定は、その決断によって人の人生が変わってしまうとか、この先何年もの生活に影響するとか、決定権者以外のステークホルダーが多いので、そことのバランスを考慮しないと組織が破綻するリスクがある。権力者がYESと言えばYESなのだけど、だからこそ暴走しないためにガバナンスがあり、法律がある。

ステークホルダーは相反する立場なのであまりにも偏った判断をしてしまうと、人が離れ、組織として機能不全に陥る。もちろん小さな組織の場合は、ガバナンスなんて仕組みはない。だから自分たちで察知して感じとるしかない。

同じことをやる場合においても、メンバーが違えば意思決定が変わらざるを得ないのかもしれない。何もしなくてもついてくるようなカリスマでない限り、仲間をエンカレッジする必要があって、少なくとも思いだけでは人はついてこない。重要だと考えていることは人によって違う。無駄だと思うことは、自分が無駄だと思っているに過ぎない。無駄だと思っても相手にとって必要ならやったほうがよいこともある。自分にはわからないけど、何がそうさせているのかを想像することはできる。

できあがっている組織は似たような考え方ができる人たちが集まるので、動かしやすい。だけど、いまいるメンバーでなんとかしないといけないとかいう状況下では振り切るよりも寄り添うほうがスマートなときもある。

引き分けがない

いまさらながら全豪オープンの決勝をみた。一進一退の攻防でどちらが勝ってもおかしくない展開。テニスはちゃんとみたことがなくて、試合の途中からようやく加点される仕組みがわかってきた程度の人間だけど、そんな素人にもわかりやすくいい試合だなと思えるものがあった。フェデラーにとっては相手がナダルだから、ナダルにとっては相手がフェデラーだから、試合のなかで引き出された何かがあったように感じられた。何回かスーパーショットがあって「ああこれは仕方がない」と相手に拍手を贈るシーンが素直に相手を讃えているようにもみえた。ネットにあたって入ったときに「悪いね」というのが超クールにみえた(あとで調べたら、謝るのはテニスではあたりまえらしい)。観客がプレー中は静まりかえり、点が入るたびに拍手や声援が沸き起こり、試合を一緒につくっている感がでていた。とにかくいい試合だったからナダルファンも悔しいけど清々しい気分で終えられたのではないか。それから、直後に表彰式があって、選手本人のスピーチがこれまた素晴らしく、メンタルの強さが感じられた。長い付き合いで、互いに認めあって、尊敬しあっている関係性みたい。フェデラーは7年ぶり5度目、ナダルがもし勝っていたら、8年ぶり2度目だったそう。似たような状況で苦しんでここまできた当事者だからこそわかることがあるのだろう。フェデラーのスピーチ。
「ラファを祝福したい。去年はけがもあったのに、すばらしいカムバックだった。2人とも決勝で会えるとは思っていなかったと思う。4、5カ月前は想像できない状況。君が準優勝できたことが非常にうれしい。テニスはとても厳しいスポーツ。引き分けがない。もし引き分けがあったら、あなたと分かち合ってもいいと感じることができた試合だった。自分のチームに感謝したい。本当にありがとう。最高の仲間。ラファのチームもがんばったに違いない。すばらしいチーム。今後もラファは活躍しなければならない。テニス界が彼を必要としている。スペシャルな夜にしてくれた。全豪はいつも楽しみ。また来年もこの会場でプレーしたい。ありがとう」