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なにそれ経営者のブログ

女の子は好き。でも結婚したくない。

会話のウラオモテ

言っていることは思っていることの断片でしかない。何か言われたときにその理由を感じとれるか。誰もがしかるべき人に正しいことを言えないし、面倒だから言いたくないし、言い出しにくいことはあるし、あの人には言えないみたいなことはある。発言から、なぜそう言ったのか、言わせてしまったのかを考えることはリスクをかりとるうえでとても大事。
とくに契約関係にある場合は、お願いする側される側という利害関係が少なからずあってそれぞれの立ち位置が違う。必然的に距離感を保って接しなければならず、当事者に言ってくれる、言われなきゃわかりませんなんてのは甘い。頼むほうは自分たちのことを当然わかってくれているという傲慢な態度があり、頼まれるほうはそれを察しないといけない。笑っているから何か楽しいことがあったのだろう、泣いているから悲しいことがあったのだろうみたいなわかりやすい例ならともかく、実際には日常的な発言から感じ取る必要がある。やりとりしているのは個と個であるものの、実際にはそれぞれが組織の人間として動いているので、まずは組織のミッション、そのグループのミッションを知らなくてはいけない。組織の人間である以上(本人がどう思っていようが)その立場的な発言をせざるを得ない。お互い大変ですよねみたいな現場レベルの疎通ができていても意思決定は別次元で決められる。
一方、プライベートにおける個人間のやりとりはさらに難しい。「なんでわかってくれないの」的な話は、性格によるところが大きく自分の経験値の外での判断が求められてもわかりようがない。共通の目的がまずもってないところからはじまる。この場合、相手を知る以外に方法はなく。価値観が他人と一致することなんてまずないわけで、相手の好きなこと嫌いなことを積み上げていって自分の経験値と合わせて推測するくらいしかできない。深く関わればそれだけ強い関係になるのでだんだんと波長が合ってくるが初対面でのやりとりはどうしても引き出しの多さに依存する。コミュニケーションコストは少ないほうが楽。パートナーに安定感を期待するのであればやっぱりどこか自分に似たようなところがある人になる。

まずい料理を出せるか

金を稼ぐということが全てを正当化する。まずい料理だけどお腹空いている人がいれば需給がバランスしてしまうわけで、三流の料理人でも食事を振る舞える。生きるためにはお金が必要だし、お腹が空いている人も目の前にいるから、どうかなと思いながらもそこで取引が成立させられる。経営者は、常に料理を出し続けなければ自分たちが死に絶えるという状態にさらされていて、生きるために他者をだますこともある。クソ不味い料理なのにお金を貰っているという立ち位置を利用して、いかにも美味しそうにみせるという詐欺に近い行為もする。生きるため。貰えるものはできるだけ貰う。生存本能が発動していると、倫理観が除外されてしまうので、できることならスマートにサバイヴしたい。

なければならない論(続き)

自分のやりたいことにお金をはらってもらえるのはとても幸せなことだと思う。仕事が「嫌だな」と思うのは、やりたくないことだからで、つらくてもやりたいことならやれる。例えば、走るのは疲れるけどなぜかやる。走りたいから。明確な意図がある。もし走ら「なければならない」になると、走りたくないときにも走らされ、結果、やりたくなくなってパフォーマンスが落ちる。同じ行為でも、何かに縛られているのといないのとで大きな差がある。
この「やりたいから」というのはとても重要で、やりたいことを仕事にしている人は、本人の思考と社会の思考が比較的近い。ただし、社会で求められていることが自分のやりたいのであれば簡単だけど、やりたいことが社会で求められるかというと、それは難しい。一歩間違えれば独りよがりのわがままで痛いやつになる。新規性や独自性は大事だけど、それが求められているか。わがままができる人=自分の考えていることが仕事にできている人、は半歩先くらいをいっている。ぶっ飛んでいることはお金になりにくい。
それからもう1つ重要なことは、やりたいことは本人にしかわからないということ。例えば、LINEの友達追加に大きなハードルを感じる人もいれば何も感じない人もいる(最近元カノが知り合いかもに出てきて追加するかしないかで超迷った。と同時にそんなことで迷うなんて…とも思った)。ポジティブやネガティブな感情は勝手に自分で決めている。脳がどう処理するか。なので、あの仕事つまらなさそうだなと思えても本人は楽しんでいることもありその逆もある。客観的に、その仕事が自分にあっているかなんて判断できない。やらなければない、あるいは、やらなくてもよいとかに関係なく、やりたいかやりたくないか。

仕事は金額ではない

1,000万円の仕事は想像できるけど、1億円の仕事はイメージがわかない…とか思ってたけど、金額なんて積み上げれば高くなる。たくさんのことをするだけ。仕事のイメージがわかないのではなくて、どれくらいやれば1億円になるかがわかっていなかった。10万と100万でも同じ。金額が高いからといって特別なことをするわけではない。仕事あたりの単価のほうが遥かに重要。単価が変わらないなら、金額がデカくても膨らんでるだけのこともあり、一概にいい仕事とは言えない。仕事には質がある。

やらないことを決める

打合せをしながら自分が発言しない時間に次の打合せの準備をしている。追い詰められてそうせざるを得ないのはかなり問題だけど、それができてしまうということは、逆に言えば出なくてもいい打ち合わせだったとも言える。追い詰められてはじめて捨てることができたけど、本来的には捨てるという判断は余裕があるときにこそしたほうがよく。死ぬ間際で大事なことがわかったみたいな。時間の有限性をひっぱくして感じることは難しい。同じ結果が得られるのなら低コストのほうがいいに決まっている。プロセスの美徳などいらない。裏口入学できるならしたい。思考実験で5分しかなかったら何をするかとシミュレーションしてみたり。標準的なものにかくれている惰性的なものは多い。

なければならない論

仕事にストレスを感じるのは、能動的にやりたくないことだからか。肉、女、酒、睡眠、運動、音楽…なんかは比較的無意識にちかいかたちで身体が求めているので、考えなくても勝手にできる。それが、やら「なければならない」みたいに縛られると。やりたいやりたくないに関係なく強制執行のような状況に追い込まれ、ストレスフルな状態になる。
人間どうしのやりとりでお金の受け渡しが発生するのは、誰かのために他の誰かが面倒な作業を引き受ける、その手間賃みたいな感覚があり、最初に契約でここまでやるからこれくらいよこせ(あるいは払う)みたいな取り決めをして、問答無用でその面倒な作業を押し付けている面もある。だとすると、引き受けた側は、契約で縛られているので、要はお金をもらうので、やら「なければならない」状態になり、やれなければ、契約変更するか、お金をもらわないか、となる。基本的には依頼する側が、やれないもしくはやりたくない仕事だから、それがお金という指標でその負荷が測られ、バランスされている。
片側にその能力がなくてできない場合には、引き受ける側は交渉する際には有利になるし、誰でもできるような場合には、引き受ける側は不利になる。しかしながら、誰でもできることであっても、みんなやりたくない、みたいな仕事は引き受けてくれる人が少ないので、多めに払う羽目になることもある。
やる側が「だったらお前がやれよ」と言えないのは、やら「なければならない」からであり、やらないのなら仕事は引き受けなければよいのであって、引き受けた以上、なんとかやりきるしかない。生活するためにはお金は必要で、仕事を選べる人であればやりたいことで稼げばよいが、選べない人も世の中にはいて、お金のために押し付けられたことをいやいやながらもやっている人たちにとっては仕事はストレスでしかない。仕事を発注する側が仕事としてやらせ「なければならない」ことなのか、というのはこれまた別の話。

信頼とは何か(続き)

「都市を生きぬくための狡知  タンザニアの零細商人マチンガの民族誌」を読んだ。商売は欲望と人間でまわっているということをありありと感じさせられる。著名な経営者の本なんかよりよほどためになる。実際に起きていることだから迫力がある。何度も読み返したい。以下、信頼に関してのメモ。本から引用。

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ウジャンジャに対する信頼とは、中間卸売商と小売商が互いの苦境や生き抜く必要に対して共感する力を持ち、他者の心を読み取り、賢く行為できることにある。ウジャンジャに対する信頼とは、次のようなものである。「友だちを信じるということは、彼が絶対に嘘をつかないとか、絶対に裏切らないとか、困ったことがあれば、絶対に助けてくれるはずだと信じることではない。そういう「絶対」と言うのは友達に一方的に期待していることであり、彼を信じていると言うことではない。友達を信じると言うことは、彼は困ったらこうするというのは他の人よりも自分が理解しているということだ。」…(略)…しかし、このような個別の人間の性格やウジャンジャな戦術に対応した「人格的信頼」が重視されているからといって、彼らができる限り他者の行為を許容すべきとする、寛容の精神で動いていると見るのは、間違いである。そのような寛容さは、この古着商売にとっては危険なものである。…(略)…「サイレンが見えなかったらダメだ。サイレンと言うのは心がなかったら見えない。相手がどんな人間かわかろうとしなかったら、この商売はやっていけない。カジャンジャはすぐにどこに住んでいるかを聞きたがる。でもそれは、知らなくてもいいことだ。彼らと渡り合っていくためには、心と信念がないとダメだ。ここ(市場)にはいろんな人間がいる。それぞれがいろいろなやり方を知っている。でも嘘がわかったからといって、「嘘でしょう」なんて簡単に言うんじゃない。どうして嘘をついたかを考えるんだ。サイレンが見えなかったら、また助けてはだめだ。カジャンジャも嘘を言えばいいからだ。でもサイレンが見えたら、損をしてもちゃんと助けるんだ。」…(略)…この言葉には、違いの適切な距離に基づいた関係性と、支援のバランスに対する並々ならぬ配慮がある。

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