なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

フローで捉えることの難しさ

1億を考えていると数百万が小さくみえるけど、残高が数百万になると百万でもかなりシビアな金額になる。千円で1週間乗り切ろうとしたときに、食事の十円単位でシビアになるのに似ている。警戒水域は、出ていく量と入ってくる量の相対で決まる。ところで運転資金でいつまでひやしやしないといけないのか。それとも拡大し続けているからこその苦しみか。利益率のいい仕事をいくらしたところて回せなければ終わる。大型案件後払い一括とかより少額でもいいから毎月入ってくるほうが安定する。支払タイミングのちょっとした違いなだけで、良くも悪くもなるからこわい。それと、プロジェクトベースでみた感じとキャッシュの感じはズレることがあって、いまの現預金がいつ時点の何なのかがみえにくく。単体として黒なら足しても黒でしょというのは自明だけど時間軸がズレるかつ複数が同時進行すると全体としてみてしまい、個別事象でほんとにどんだけ利益出しているのかと疑ってしまう。バックオフィスの経費なんかをつんだところで出ていくもんは出ていくから一率で何パーみたいな一般管理費も信用できない。いまの数字はひとつだからそれが一番重要なんだけど瞬間のきりとりでしかない。

追いつかないと追い越せない

思想は引き継がれない。なぜそれが作られたかという本質的なところは、外側の規制や制度、仕組みができたあとは薄まっていく。自らが設計し最先端を走り続けていればその基本的な思想がありありとわかるが、汎用性をもち、一般化してくるとわかりやすい面だけが強調され、外からその一面だけを捉えると本質を見失う。いわゆる思想が「形骸化」する。
水野氏の「法のデザイン」を読んで"law lag"(法律の遅れ)という言葉を知った。社会が発展して従来の法律ではカバーしきれなくなる現象を指すのだそう。「法という性質上、原則として現実の後追いしかできない」。だからこそ、自分たちが法律を追い越し、その余白を解釈したり、グレーな部分をシロクロはっきりさせるルールを制定したり、いわゆる「リーガルデザイン」が必要だと述べている。

『そもそも契約における三大原則の1つである契約自由の原則は、まさしくリーガルデザインそのものである。契約自由の原則とは、私人は、公序良俗に反しない限り、国家が決定する法律に縛られず、自由に双方の合意を実現してよい、という民法の大原則である。しかし、現代においては大企業が作成した契約書の雛形や一方的に定められた利用規約、大家が作成した定型的な賃貸借契約書に一方的にサインさせられるケースがほとんどである。その結果、契約と言うものがそもそも当事者双方の行為を実現していくために忠誠を重ねていく、合意形成やコミニュケーションのための手段であると言う認識すら有していない一般市民がなんと多いことか。すなわち、本来大原則であるはずの契約自由の原則は形骸化し、私たちは契約が自由にデザインできるものであることを忘却してしまっている。その意味では、リーガルデザインの思想は、現在世界的に蔓延している、企業が一方的に突きつけてくる規約・約款やシュリンクラップ・クリックラップ契約と言う悪しき慣習から私たちを解き放つと言う要素もある。』

言われてみればもっとな指摘であり自分の感覚としてもとてもしっくりくる。しかしながら、そもそもこちら側がやりたいことありきで、法律をデザインしていく行為はかなりハイレベルである。まずは法律に追いつかないと議論することすらできない。そして追いついて追い越していかないと、法律は重荷にしかならない。
与えられたルールの範囲内でプレーすることは悪いことではないけれど、そこには創造性を入れられる余地が少なくおもしろくない。ネガティヴに捉えれば、ルールにフィットさせるテクニックで稼ぐのか?という思考にもおちいる。現にぼくはいまそこで思考停止してしまっているように思う。誰かが作った面倒なルールに適合させることがめんどくさくて、形式主義やら前例主義やらという批判をしてストレスをためている。
水野氏はルールを「超えていく」というマインドが大切であると主張されており、この考え方に救われた。何度も読み返したい。

 

参考)水野祐「法のデザイン」

ナンパも婚活

婚活と出会い系は線引きできない。婚活というと、どうもクリーンなイメージを恣意的に作り出して出会い系とは違いますよ、軽い出会いではないですよ感を出している印象をもつが、結婚という法的手続きをしたいというのがミニマムな要請であって、国から与えられた法的要件に適合させるためのパートナーを探す行為というのがゴールであろう。そこに恋がしたいだの理想の相手だのごちゃごちゃきれいごとをのせるから、本質を見失う。出会い系でもナンパでも主たる目的がセックスだとしても男女が出会うためのプラットフォーム、あるいは、方法論という意味では変わらない。しかも結婚してから子供を産むから結果的にセックスだってするじゃねーか。むらむらしてヤッたかたか子供が欲しくてヤッたかなんてのは関係ない。やろうとしていることは一緒だろ。マーケティングされた言葉でカモフラージュされている。出会い系もナンパもそれも含めて広く婚活ですと捉えたほうが自然だと思う。

まずい料理を出せるか(続き)

人件費は利益になる。なってしまう。あとから検証できない。説明しろと言われても単価が決まっていて何時間稼働したというところで辻褄があっていればそれ以上つめることはできない。払うほうもそれをわかっている。なのでできるだけわけのわからない人件費はのせたくない。ということをわかったうえで、これなら文句ないでしょというようなエビデンスを作る能力は確かに利益を出せる。特に公的機関はそれが求められている。説明がつけば払う。カタにハマるかがポイントでそこに善悪の判断はない。法律はそうかもしれない。どうかなと思っても敏腕弁護士がつけばがっつりいけることもある。いけるかもしれないけど、そこじゃないだろう感が強い。やりたいことがあって法律が障害になっていてそこをうまく解釈するというのはありだけど、いまある法律に加担して稼ぐのはただのマスターベーションではないか。仕事に大義はあるか。

会話のウラオモテ

言っていることは思っていることの断片でしかない。何か言われたときにその理由を感じとれるか。誰もがしかるべき人に正しいことを言えないし、面倒だから言いたくないし、言い出しにくいことはあるし、あの人には言えないみたいなことはある。発言から、なぜそう言ったのか、言わせてしまったのかを考えることはリスクをかりとるうえでとても大事。
とくに契約関係にある場合は、お願いする側される側という利害関係が少なからずあってそれぞれの立ち位置が違う。必然的に距離感を保って接しなければならず、当事者に言ってくれる、言われなきゃわかりませんなんてのは甘い。頼むほうは自分たちのことを当然わかってくれているという傲慢な態度があり、頼まれるほうはそれを察しないといけない。笑っているから何か楽しいことがあったのだろう、泣いているから悲しいことがあったのだろうみたいなわかりやすい例ならともかく、実際には日常的な発言から感じ取る必要がある。やりとりしているのは個と個であるものの、実際にはそれぞれが組織の人間として動いているので、まずは組織のミッション、そのグループのミッションを知らなくてはいけない。組織の人間である以上(本人がどう思っていようが)その立場的な発言をせざるを得ない。お互い大変ですよねみたいな現場レベルの疎通ができていても意思決定は別次元で決められる。
一方、プライベートにおける個人間のやりとりはさらに難しい。「なんでわかってくれないの」的な話は、性格によるところが大きく自分の経験値の外での判断が求められてもわかりようがない。共通の目的がまずもってないところからはじまる。この場合、相手を知る以外に方法はなく。価値観が他人と一致することなんてまずないわけで、相手の好きなこと嫌いなことを積み上げていって自分の経験値と合わせて推測するくらいしかできない。深く関わればそれだけ強い関係になるのでだんだんと波長が合ってくるが初対面でのやりとりはどうしても引き出しの多さに依存する。コミュニケーションコストは少ないほうが楽。パートナーに安定感を期待するのであればやっぱりどこか自分に似たようなところがある人になる。

まずい料理を出せるか

金を稼ぐということが全てを正当化する。まずい料理だけどお腹空いている人がいれば需給がバランスしてしまうわけで、三流の料理人でも食事を振る舞える。生きるためにはお金が必要だし、お腹が空いている人も目の前にいるから、どうかなと思いながらもそこで取引が成立させられる。経営者は、常に料理を出し続けなければ自分たちが死に絶えるという状態にさらされていて、生きるために他者をだますこともある。クソ不味い料理なのにお金を貰っているという立ち位置を利用して、いかにも美味しそうにみせるという詐欺に近い行為もする。生きるため。貰えるものはできるだけ貰う。生存本能が発動していると、倫理観が除外されてしまうので、できることならスマートにサバイヴしたい。

なければならない論(続き)

自分のやりたいことにお金をはらってもらえるのはとても幸せなことだと思う。仕事が「嫌だな」と思うのは、やりたくないことだからで、つらくてもやりたいことならやれる。例えば、走るのは疲れるけどなぜかやる。走りたいから。明確な意図がある。もし走ら「なければならない」になると、走りたくないときにも走らされ、結果、やりたくなくなってパフォーマンスが落ちる。同じ行為でも、何かに縛られているのといないのとで大きな差がある。
この「やりたいから」というのはとても重要で、やりたいことを仕事にしている人は、本人の思考と社会の思考が比較的近い。ただし、社会で求められていることが自分のやりたいのであれば簡単だけど、やりたいことが社会で求められるかというと、それは難しい。一歩間違えれば独りよがりのわがままで痛いやつになる。新規性や独自性は大事だけど、それが求められているか。わがままができる人=自分の考えていることが仕事にできている人、は半歩先くらいをいっている。ぶっ飛んでいることはお金になりにくい。
それからもう1つ重要なことは、やりたいことは本人にしかわからないということ。例えば、LINEの友達追加に大きなハードルを感じる人もいれば何も感じない人もいる(最近元カノが知り合いかもに出てきて追加するかしないかで超迷った。と同時にそんなことで迷うなんて…とも思った)。ポジティブやネガティブな感情は勝手に自分で決めている。脳がどう処理するか。なので、あの仕事つまらなさそうだなと思えても本人は楽しんでいることもありその逆もある。客観的に、その仕事が自分にあっているかなんて判断できない。やらなければない、あるいは、やらなくてもよいとかに関係なく、やりたいかやりたくないか。