なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

honesty

いま一番大事だなぁとかんじていることは、人にも自分にも嘘をつかないこと。あたりまえのことだけどこれがなかなか難しい。とくに自分のことになると誰にも迷惑をかけないし、むしろ自己犠牲のもとでみんながハッピーになるのなら嘘をついたほうが楽なので閉じ込めてしまう。だけど閉じ込めてしまうと、ほんとのことがだんだんわからなくなり。その場はしのげるかもしれないけど、長い目でみるとよくない。結局自分の思いではないので説得力にかける。言ってることは正しいし、なんの破綻もないけどリアルではない。なんか違うってのは伝わる。嘘だから。「お前本気でそう思ってんのかよ!」と。空気を読むことはたしかに大事だけど、もっと大事なのは嘘をつかないこと。あるべき論を無視して素直になること。ダメなものはダメだし、イイものはイイ。美しい嘘より醜い真実。

嘘をつかずに泳ぐ

AとBを選ぶときに直感で最後はAになるだろうとうすうす感じでいても、Bにのっかっていったん泳ぐことが合意形成においては大事かもという話。これまではさっさとAに決めて先に進めたほうが効率的やんと信じていたけどハードランディングし過ぎるといろいろついてこない。本気でそう思えるタイミングは人それぞれで意思決定のタイミングは早くても遅くてもしくじる。「結婚しよう」と言われ「じゃあしよう」とちゃんと考えてもいないのに答えを出してしくじったこともある。
なので、強引にAにするよりも、Bの話を聞き「そうだよね、Bだよな」とAを説得しにかかるというプレーがきく。プレーといいながらもこのときは自分のなかではBという結論をだしている。つまりこの時点で嘘はついていない。そもそも事実なので嘘をつく必要がない。が、結局Bは無理で最終的にAにおちつく。Aという結論が最初にみえても一時的には本気でBとして動く。AでもBでも正しいからコンフリクトしているのであって、突きつめればどちらでもよい。どちらにしたいかという思いが意思決定に影響してしまって最初にAだと感じたらAになってしまう確率が高いけど、いったんクリアにしてスイングする。
女絡みでいえば、何人と同時に付き合おうが、全員好きなのであれば堂々としていればいいし、なんら問題はない。相手にとって不快かもしれない行為をしていると思うからバレないというやましさがうまれるのであって、選べないのだから仕方がない。会っている時間は少なくともそいつが最高だと思っている…こともあった。同時に満たそうとする、あるいは、どちらかを選ばないといけない、という状況は難しいけど、基本的にはそのときどきの本心に従って行動すれば、こじれることはない。

造られた自然

北の地域では、桜の開花をゴールデンウィークに合わせようと氷などで桜を冷やしているところもあるらしい。それでも効果があるのは1日くらいだという。強烈な違和感。観光地の人たちがやりたいことはわかる。わかるけどなんか間違っとりゃせんか。たしかに多くの人が訪れるタイミングに合わせて満開であれば絵になる。がしかし、直前になって人為的にコントロールしてまで無理やり遅らせることはなかろう。自分たちの勝手な都合に合わせるために。養殖やら品種改良みたいに何年もかけて徹底的に合わせにいくならわかる。完璧に咲くタイミングをコントロールしますってのならまだわかる。子供たちに魚を獲らせるときに大人が囲った安全な場所で放流して「はいどうぞ〜」とやる感じ。イラつく。ぬるいんじゃ。そんなもん自分で獲ってこいや。獲れる獲れんはあるのがあたりまえやがの。そんなかで獲れるってとこに刺さるのであっていいとこ取りしようとプロセス削って表面なぞるのが薄い。桜はただただ咲くから美しいのであって、ちまちま手を入れんでも良いし、咲いているその一瞬から想いを馳せられるだけで良いように思う。

強者の美学

ドンケツがめちゃくちゃおもしろい。ありとあらゆるヤクザ漫画を読んだってひとから「ドンケツ」がいちばんヤバいって聞いたけどたしかにヤバい。これまでマンガといえばサンクチュアリー一択だったけど二択にしようかと思うくらい。
強いというわかりやすさ。そして実際ハンパなく強い。ケンカが好きだというブレない軸。それとばりばり現役。ここ重要。いま強い。いま。ロケマサやゲンコが「喧嘩のカンが鈍ってんじゃねぇのか」と目上の連中に絡むシーンがある。昔は強かって偉くなったかもしれないけどいま弱いんなら怖くねぇと。
あらくれ者の組織を統率するにはロジックがいる。任侠で支配しようとする月論会の幹部。人間の欲望につけ込み、外道なやり方で金や薬を使って急速に力をつける十五夜組。ロケマサは、そういうごちゃごちゃした政治的な世界とは別の次元で生きている。価値観の次元が違う。もちろん強いだけでは出世はしないし(だからドンケツのまま)、偉くないと権力や金がないから大事なときに人を救えない。友人のススムを救えなくて自分は強いだけで権力がないと守ることができないと悩むシーンも。だけどひとはやっばりシンプルで原始的なところに惹かれる。研ぎ澄まされた野性味。組の違うゲンコや速水はそういうところで繋がっている。
数字の世界では数字を出したやつが勝者と言われる。策略があって運もあって第一線で活躍しているやつがいる。けどたまたまそいつが巡り合わせで第一線にいるだけで、もっともっと多くの実力者がいるはず。数字が出なければ敗者だけどそれがすべてかと思わせてくれる。勝者ではない強者の生き様もある。

 

同一労働同一賃金はほんとか

同じことをして違う賃金が支払われるのは不公平だ。というのはわかる。これはこれで正しい。だけど同一労働同一賃金にはなんの根拠もない。仕事にお金が紐付いているという考え方に支配されているだけのように思う。一物一価の法則に近い。ものの値段は同じ価格に収斂されるというのはたしかにそうかもしれないが、実際には違う。個々の取引をみると、同じ物も違う値段で売られているし、買う側の支払能力に応じて値段が変えられている。賃金も同じで、働く側にもそれぞれ事情が異なるわけで、そいつにとってのその値段というのは相対的に決まる。仕事に対して報酬が決まるというのは偏った見方で、支払いをボトムラインに抑えるという点では雇用者側のエゴじゃなかろうか。賃金は雇用者と従事者のバランスで決まる。仕事から一意に賃金が決まるわけでなく、仕事と従事者で賃金が決まり、同じ仕事でも違う賃金になるというロジックが通る。平たく言えば、すごい忙しいやつの時間と暇してるやつの時間は値段が違う。忙しいやつに時間をもらうときは高い報酬を払わなくちゃいけない、というのもふつうにあり得る。安い方は同じ仕事なのになんで自分は安い報酬しかもらえないのかと思うかもしれないけど、報酬がはねてるやつにはそれなりの理由がある。

決算書は卑猥だ

東芝の四半期決算がまた延期しそうだ。 延期なら3回目。「できませんでしたおわりません。」で押し通せる世界もあるのだなぁと思う。0か100かしかないのはわかるけど約束は約束だろ、みんなぎりぎりの状態で期限までに100の帳尻合わせしてんだから、お前だけ何回も待てるわけじゃないんじゃね〜のとも思う。法的要件ですら例外処理ができてしまい「できないなら終わり。お引き取りください。」とゴミのように扱われて存在を消されることはない。消すことによって損をするひとが権力を持っているのか?
原子力事業の損失は約1兆円とも言われているがその金額をめぐって結論が出せずにいる。不正会計もあったとされているが、それが発覚する前は少なくとも「まわって」いたわけで、つまり、お金を回収して期限までにちゃんと支払いができていたはず。ところが、ある日を境に実はまだ負債があっていまの手元資金だと支払えませんこのままだと倒産しますと言われてもあまりピンとこない。少なくともこれまでは正当な金額を請求されてこなかったわけで債権者もあほなのか。一方再建に向けては、運転資金がないからキャッシュを確保するために半導体のメモリ事業を売却する動きがある。こちらは逆にいくらで売れるのか、5,000億か1兆円にのるかがあつい。
決算に関してこれほどまでに世間が騒ぎ立てるのはやはり数字は生々しくていやらしさがあるからだと思う。第三者に決算書をみせるのは人前で裸になるような感覚で恥ずかしい。鍛えてないとみせたくないという点でも似ているし、日頃からやってないとペラい。マッチョな財務体質はやっぱりかっこいいし債務超過はゲスの極み。逆に、他社の決算書をみるときはなんとなくやましいことをしている気分になる。上場企業は公開全裸みたいなものだから、巨乳かとおもってたのにいざ脱がせてみたら、よせてただけかい!みたいなんもばればれ。いつでも脱げるぜ的なわりきりで堂々としていればいいけど、せせこましくテクニックで見せかけようとすれば、中身がない人ね、付き合うのやめよっかとなって銀行や投資家に逃げられる。第三者に対して日々の業務では見せてくれないけど決算のときだけはみせてくれる秘密。決算書は卑猥だ。

社長の仕事

外資系メーカーで社長を10年やられていた方と「固定費結構かかるでしょ」「毎月預金通帳をみるのが不安で、早くキャッシュリッチになりたいです」「経営者だからそこから逃れるのとはできないよ」という会話をした。社長の仕事とは数字とにらめっこすることなのか。社会人なりたてのころ誰かと「社長って日々何やってんだろうね、全く想像できん」という話をしたことを思い出した。少なくとも現場でオペレーションをしていないことはわかる。どこにいるのかわからないから何もやってないじゃないか。現場以外に仕事なんてないだろう(つまり社長は使えないただの飾り)という感覚からの発言だったと思う。視野がせまい。いまなら、その「現場」をつくること、何をして誰からいくら貰うのかを考えること、そもそも自分たちが何をすべきか、自分たちにしかできないことを考えること、など現場に関わる周辺整備も仕事だと感じる。現場が今だとすると、社長はその少し先の時間(できることならもっと先の時間も)をみて仕事をしている。逆にできてしまえば、お客さんと握ることができればあとはやるだけだから(そのやることも非常に大変なのだけど)だれがやってもお金は入ってくる。営業かと言われるとそうかもしれないが、すでに売るものが決まっている場合には営業もひとつのオペレーションにおとしこめる。これが外向きの仕事。それから内向きの仕事として、人をどうするとか、事務的な手続きを誰が処理するとか、事業をするうえで逃れられない雑務も山ほどある。特に人の問題はずっとついてまわる。「あなたが雇われたのも人事計画をたてた人がいて、新人の募集をかけて、会社説明会をして、応募者に案内して、採用面接した人がいて、採用した人がいて、それらにかかわる会場手配やらメール電話連絡やらのロジもやっていて、それにどれだけの人が関わっているか、それを考えて実行させているのが社長の仕事でもあるんじゃない?」と10年前のぼくに言いたい。

社長の仕事は総じてキャッシュインとキャッシュアウトに関わる全てとしか言いようがない。入出金はハードなのでもっとソフトな(人の心理に配慮した)ことも、むしろソフトなことのほうが必要な気もしている。多面的にみることができないとできない。片側の情報しかないと、それと自分の知識をつなぎ合わせて誤った判断につながる。判断を誤ればその分損失がうまれる。時間的にもお金的にも。冒頭の元社長は、この時給だったらこれくらいしか人件費に使えないのだなと察してくれたが、多くの人は自分の評価はこの程度かと否定的な見方をする。おそらく払う側の立場にならないとその感覚はもてないと思う。人件費なんて相対的に決められるから、市場価格なんて決まったメジャーがあるわけでなく、そいつにいくら払ってもいいと思えるかの妥協点でしかない。心理的に決められる。余談だが、社長はいくらもらうべきかという自分の給与問題はいまだにこたえがない。社長の仕事とはなんなのか。「決めること」が仕事だという人もいてそのとおりだと思う。でもそれだけではない。