なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

見えている景色

見えている景色こそが器のデカさであると思う。社長は縛られないというのは明らかにウソである。たしかに内的な指示命令系統として自分の上はいないが、そもそも会社は社会を構成する一部に過ぎない。社会に対して、具体的にはステークホルダーに忠実でなければならない。お客様がいて、株主がいて、従業員がいる。たいていの場合、彼らの要求をすべて同時に満たすような選択はできず、何を優先させどういった意思決定をするかは当事者である社長に委ねられているものの、完全なる自由だというのは間違っている。目の前の(敵も味方も含めた)人たちに忠実でなければ単なる暴君でしかない。暴君は歴史的にみても必ず破滅につながる。社長はむしろ従業員より縛られるものが多いという点では窮屈なのかもしれない。

山登りをしている過程では頂上しかみえておらずあまり気がつかないが、山頂から見渡せば、広大な空が広がることに気がつく。ひとつの山を制覇したところで世界の広さを思い知らされるだけである。裏を返せば山登りの途中でも空を見ることはでき、そこに気がつくことができれば、どんな肩書であれ社長と同じようなメンタリティをもつことはできる。ゲームのルールが多少複雑になる程度でやっていることは本質的には変わらない。そういう意味では、会社のメンバーがやるべきことに対しては全員がフラットである。

尾崎豊が15の夜で「自由になれた気がした」と言っているのは秀逸で、あくまで気がしただけで、真に自由にはなっていない。この社会で生きていく限り、誰にも支配されず自由にはなることなどできない。この無力さ、悲しさみたいなものにすでに気づいているところに泣ける。

理由が欲しい病

「理由が欲しいんだね」と言われた。理由なんてまやかしだと(これは本気で)思っているけど、確かになにかしら答えを探してしまっていて、ないまま受け入れることが苦手。なにかしら納得できる理由を考えがち。だけど理由だけではすべてを覆いきれないから迷子になる。答えのない問いはとくに。理性で語ろうとしたアダム・スミスロールズアマルティア・センなど歴史的にみても多くの哲学者たちが挑んできた難問。幸せとは何か、正義とは何か、愛とは何か…。
キングダムで政が言った光とは貨幣に勝るもので、法でもある。目指すべき理想のメタファーだという説に対してそれは違うと一蹴された。人を信じるという根本的かつ絶対的なもので、光とは何かという質問自体がナンセンスであると。ただただ純粋な光で、光は光。シンプルで単純なこと。自分はその域にはまだ達していないのでちゃんと腹おちしなかったけど言わんとすることはなんとなくはわかる。深い…と一瞬思ったけど逆に深くないのか。深くないほうが深い。頭でどんだけ練ったものであろうが心で本質的に思っていることのほうが強い。子供でもわかる。ウケる曲は5〜6分とかの短時間で骨格ができた曲という話に似ている。考えないというわけではなく、考える向きが逆。掘り下げない。ただそのまま。思考のクセを変えるのはなかなか難しい。

言葉に追いつく瞬間

子ども「なんで階段があるの?」親「高いところに登るためだよ。」という会話が聞こえてきた。思わぬ角度から疑問がわくんだなぁと感心するとともに答えるほうもたいへんだなぁと。日常的にそういう会話はしていてそんなことにいちいち構ってられない(実際すぐさま次の関心ごとにうつって目の前のお菓子に夢中)のだろうけど、間違ったことを言っても盲目的に信じることもあるし、間違っていても学習してしまう(修正すればいいだけだが)。言葉を話すようになると、答えられない問いを簡単に作れるので、知的好奇心なのか言葉遊びなのかはさておき、言葉の発達のほうが道徳観や倫理観に先行する。表面的に言葉じりを捉えて外堀が先に埋められる。例えば、誰かを好きになることや傷ついて落ち込むことは、経験して自分で認識しないとわからないので、子ども「あの人なんで泣いているの?」親「悲しいからだよ」子ども「ふ〜ん」みたいな会話はコンテキストが共有できていない。子どもはなぜ悲しいかがわからないので、言葉としてしか理解できない。映画のロボコップで最後「人間がなぜ涙を流すのかわかった気がする」というのに似ている。先の会話で、その答えでいいのか。子どもの疑問にちゃんと答えられているのか。などと考えてしまった。
大人とは何か。例えば「大人の事情」というワードは、空気読んでね、言葉ではそういっているけど不条理な理由があるんだよというニュアンスの意味で使っている。本音と建前を使い分ける、というテクニックを身につけてしまったひとは「大人」。なぜこれができるかというと、誰かに対して言っていいことと悪いことのラインを引けるからであって、言葉を道徳観や倫理観の配下におさめ、暴走しないようにコントロールできているからでもある。無邪気に思ったことを言うのは社会的には稚拙だと見られがちで(創造性においては極めて重要な要素ではあるが)「子ども」。道徳観や倫理観などの認識が言葉に追いついてしまったときが「大人」になる瞬間なのかもしれない。逆に、ブッとんだ考え方をするのは自己認識を超えて言葉で表現することで、ある意味では幼稚な子どもと言える。今日はこどもの日。

人を変える力

キングダムを読破した。泣くことを期待して読んだマンガで本当に泣いたのはいつぶりだろう。描かれている世界が壮大で登場人物それぞれにドラマがある。誰目線で世界を眺められるか、誰に感情移入するかは、いまの自分のあり方をとてもよくあらわしているけど、単純にやっぱり信や政の目線でみてしまった。これまで誰も成し遂げられなかった夢をかかげ、それを心から信じ、大人たちに挑んでいく姿はふるえるものがあるし、お手本となるかっこいい大人たちがいるところにもしびれた。経験や実力でかなわない大人たちがいる。私欲や私情で違う方向にもっていこうとするやつらもいる。それでもやらなければならない。超えていかなくちゃいけない。王騎将軍にはもはや憧れしかなく。強き者が強き者を倒して時代をつくるといって最期まで貫き通したあのかっこよさはなんなのか。これが将軍の見ている景色だと、王輝の馬に乗せられてみた景色。桓騎のオトナの戦いといってみせつけられたなんでもありだけど結果的に完全勝利したやり方。これはまさに義務論と帰結主義の対立で、目的達成のためとはいえやっちゃいけないことがあるとすればそのラインはどこか。みえている人間とみえていない人間。同時期に生きていないとどちらが強いか証明しようがないというのは真理だけど、誰も成し遂げられなかった偉業を達成すればそいつが一番強いというのもこれまた真理である。信は相手が強ければ強いほど実力以上の力を発揮し、ことごとく結果をだしでチャンスをモノにしている。政は最初から中華統一を信じきっていてブレない。上の世代からまだ未熟だけどこいつを引き上げようと思ってもらえたり、仲間からこの人のためなら死ねると思われたりする素質を2人は持っている。人間の本質とは光…政が呂不韋との会談でそう言い放った。政が紫夏に救われたときにみたものでもあるし、羌瘣が深い闇から戻る道筋でも光がでてくる。光は人の生き様を変えるのか。

メッセージ性

とある社長のメールがとても情熱的で、自分の形式的なメールと比べてしまった。メールはいかにはやく簡潔に処理するかという思考に偏っていたのでそうだよなぁと。相手によって多少は表現を変えるものの、基本的にはいちいちくだらない枕言葉をつけがちで、でもそんなのは空虚なポーズに過ぎない。美しい言い回しを完璧に使いこなしたところでなんらインパクトはない。むしろ自分の言葉でちゃんと語ったほうがよく。たとえ読まれなかったとしても少なくとも自分に嘘はついていない。リーダーたる者、自分で考えることも大事だけど人をやる気にさせるのも仕事かと。いろいろなスタイルはあれど、誰かに支えられ、応援されたほうが強いに決まっている。投資判断は、事業にかける熱量があるかを基準にしていると言っていた投資家もいた。真っ直ぐな思いは刺さる。安っぽいビジネス書みたいになってしまった。普遍的なことは普遍だから普遍的価値を維持している。

ラ・ラ・ランドは選択論だ

ラ・ラ・ランドは詰まるところ選択論だと思いました。ピークでモノにできるか。あのときああすればみたいな後悔は振り返ればいくらでもあって、過去を比べればあのときが最高だったということはわかりますが、現在進行形でいまがピークであるということはわかりません。この先もっといいことがあるかもしれないですし、いまはそのタイミングではないと思って迷うことのほうが普通です。そして多くの人は最高の瞬間に決めきることができず、結局タイミングを逃してしまいます。株式市場で最高値で売りぬくことができないのに似ています。
「恋は自分の思い通りにはいかないんだよ」というメッセージが多くの人の共感を得たのではないでしょうか。好きなのに別れる。元カレを忘れられない。だけど幸せな人生はある。いまが幸せだと信じて生きていくしかない。
夢を追うことと現実をみることの間で2人はすれ違い、揺れ動かされます。相手のことを慮って自分の夢を諦めても、もはや相手はそこに期待していなかったというように、同じことをしても相手のメンタリティによって響くこともあるし響かないこともあります。ベストな選択をしてもそのタイミングによっては全く逆の結論になることがある。結婚はタイミングだと言いますが、2人の人生が独立に進んでいくなかでその歩調を合わせるのは至難の技です。
全体を通して、映像はカラフルでみんなで踊り出してしまうくらいアップテンポな曲が多くてファッションもドレッシーでおしゃれで華々しい世界が描かれているのですが、見終わったあとにもどかしさが残るのは、クリアなハッピーエンディングではなく、最愛の人とは結婚できないという悲しさからでしょうか。人生は悲しくて切なくて重たい。ミアとセバスチャンが出会ったときに流れていた曲(あとで調べたら、曲名は"Mia & Sebastian’s Theme"だそう)の暗さが象徴的で、ラストで走馬灯のように流れるシーンでもこの曲がキーになっています。いきなり踊り出すという世界観にはうまく没入できませんでしたが、この曲は好きです。

仕事と事業(続き)

創造性に値段はない。アイデアやコンセプトが仕事を「つくる」原液みたいなもので、これらは「稼ぐ」こととは独立で存在している。稼ぐという話になると、うまくまわすことさえできれば持続するため、事業として成立する。うまくまわす方法は基本的には2つしかないない。時間軸をズラす(借入をして今は赤字だけど将来黒字)か、複数の仕事で融通し合う(赤字事業に黒字事業から補填する)か。
イデアやコンセプトは人間がもともと持っているもので、紀元前の古代ギリシアアリストテレスなんかの時代から言語や論理のフレームに落とし込もうとして自然科学が発展してきた。一方で、事業のようなビジネス寄りの仕組みがちゃんとつくられたのは、それこそ18世紀の産業革命あたりで科学よりぜんぜん歴史は浅い。そもそも科学と事業(資本主義)を無理やり繋いだのだから、創造性と金銭的な指標は関係ないほうがストンとおちる。
アカデミアの文脈で体系化された知識や経験を実社会に応用してお金に換える方法(お金を稼ぐことを目的として事業をおこなうわけではない)が、ビジネスのオーソドックスなやり方で、製造業でいえば、研究開発から企画につなぐ、あるいは、金融業でいえば、偏微分方程式からオプション価格が決める、ということ。科学の最先端はそれぞれが専門的過ぎてもはや直感では理解できないため、いくらどこに投資すべきかはわからない(投資を職業の人にしているひとたちがいるくらいでこれまた専門性が求められる)。そして、世の中には稼ぐという専門性に特化したひと、いわゆるプロの経営者もいる。