なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

具体と抽象をつなげる

市場規模が1億円といったときにどこまで具体的に想像できるか。1万円×1000個、10万円×100個、と分解して、1ヶ月あたり1万円の製品を100個売る、10万円の製品を10個売る、など日々の業務に落とし込めているか。足し合わされて大きな数値になると、まとまりでしか認識できなくなる。マネジメントがおおざっぱに現状把握をして方向性を決める場合にはそれでよいが(むしろ細かい話は興味がない)、業務をするには何をどれだけ繰り返せばそこに至るのかが具体化されていないと迫力がないし、何も言っていないのと変わらない。そもそも1億円のマーケットといったときに、積み上げられてその結果になっているはずなので、因数分解できないはずがない。単価×個数なんて誰でも知っていることだけど、具体と抽象をつなげて押さえておくだけで、そのものに対するイメージはぜんぜん違ってくる。

都合のよいように解釈しがち

夏休みってなんだよ。夏だから休むって意味がわからん。などとキレていたけど、よくよく考えれば「夏」と「休み」に因果関係はなく、夏に休むと言っているだけで、夏休みそのものになんの罪もない。構造的には、午前半休などと同じで、育児休暇とは一線をかくす。受け手の誤解というのは、ほんとにやっかいで「結果にコミットする」なんていう商品もあるけど、料金体系をみると◯◯コースいくら、みたいな設定になっている。てっきり結果がでなければ全額返済みたいなことを想像していたので違うんかいと。料金体系は成果報酬ではない。つまり、コミットしているのは、サービスを提供する側ではなくて、受け手のほうで、ユーザーかコミットする、が正しい。確かに主語は明示されていないので、そちらがやってくれるなどと都合のよい解釈をするのはよくないけど、私たちがコミットします、ではなく、あなたたちがコミットします(そのために最大限のサポートを私たちがします)というコピーだったのだ!やるのは本人なので正論だし、ぜんぜんいいけどいまさらながら。

 

仕事をはがす

自分の仕事をはがすと客観的にみえてくるものがある。自らリードしてどっぷりなかに入ってしまうと視野が狭くなり、やれることベースで考えがちで、あるべき論にはいきにくい。自分が何もせずアウトプットだけをみるようにすると、もっとこうしたほうがよい、ああしたほうがよい、むしろやらないほうがいいなど、コントロールするところに力が振り分けられる。コントロールする前に力を使い切ってしまうとその先になかなかいきにくい。一回突き放さないとブレイクスルーはしないわけで、壊さないと作れない。頭を休めて考え直すのもそうした効果はあるように思う。積み上げて次に進める種類の仕事であればなおさら、最前線にエネルギーは集中させるべきで、維持に使っているようでは進化せず繰り返しに陥る。

固有名詞で考える

ジョブズの言っていた「人は実際にみて触れたときにはじめて自分が欲しかったものに気がつく」というのは自分の好みの人についてもいえることで、出会ってしまったらわかるけど、出会っていないときにはまったく想像ができない。人はわがままなもので、その人を知らない世界で生きていると、それはそれで満足しているが、知ってしまうともう戻れない。パートナーが存在しないということがあり得なくなる。そして、いつどこでスイッチが入るかわからないのも話をこじらせている。英語の表現で、fall in loveという言い回しがあるが、まさにフォール。fallという意味を調べるとpass suddenly and passively into a state of body or mind とあった。uncontrolableで自分ではどうすることもできない。自分の気持ちなのに自分でどうすることもできない。完璧にpersonalizedな現象でもあって、それこそ1 to 1の出来事だから、コンテクストがうまく共有できない。のろけ話は当事者に閉じていて第三者が聞いてもまったくピンとこないからやっかいである。(恋のドラマなんかで感情移入できるのはどこかで自分の経験値を参照している気がする。)大げさにいえば世の中どうなろうとも目の前の恋人を愛するということは変わらなくて、スイッチが入ったらオフにならないくせに、スイッチを押す前まではその気はまったくもって持ち合わせていない。

時間を感じる

誰かが創ったものや誰かが表現していることに心が動かされるのは、そこに時間がつまっているからだと思う。かたちが美しいとか見たこともない動きだ、みたいな驚きはたしかにそのとおりだけど、そういう表層的なところよりも深層に触れられるほうが重い。起きている現実、見ている現実は「いま」しかないからそこから得られる情報はさほど変わらないが、いまを取り込んだときにどこまで膨らむかは受け取る側に依る。自分が関与することではじめて受容できる。例えば、全く知らない人の結婚式にでるより昔からよく知っている人の結婚式に出るほうがより深く喜びをわかちあえる。ララランドの最後に出会った瞬間すべてがプレイバックするシーンがあるが、前半観てなかったとしたら「なんのこっちゃ」となるだろう。映画は意図的に仕込むことができるけど、人生そううまくはハマらない。5分で読める文章も、書くために何時間もかかっていることがある。実際に手を動かして書いた時間は数分かもしれないけど、そこに至るまでの思考の積み重ねがあり、その人のこれまでが結集している。スポーツにしろ、試合は一瞬で決まることがあるが、そこに至るトレーニングがあってその時間を想うと泣ける(わざとらしく編集するテレビはどうかと思うが)。スラムダンクで桜木が流川のシュートに目を奪われるのも「何百万本とうってきた」シュートで培われた技術を直感的に感じ取ったことにほかならない。自然のなかにたたずんで息を吸うだけでリラックスできるのは、無意識のうちに時の流れを感じ取っているようにも思う。AIは人間が実現できない驚異的な学習速度でインプットするが、AIのアウトプットで人は感動できるのか。教師データで欠落しているものは何か。時間をかけることでしか得られなかったと考えられてきたもの。時間をテクノロジーの力で短縮したとき、時間のすべてを取り込めるのか。チューリングテストじゃないけど、もし違和感があったとするとどういうことだろう。それにより、人間の創造性が浮き彫りになるのか?

書だ!石川九楊展(続き)

紙に書かれた言葉なのに奥行きがあるようにも感じられた。太さの違う線が幾重にも重なりあっていてその四角い紙全体ではじめて完結しているようにもみえる。ひと文字だけでは不完全で動詞的に生きたまま存在しているよう。その場に留まっていない。方丈記の一節で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」のくだりがあるが、古典シリーズに方丈記も展示されてあり、まさに。あまりに衝撃をうけたので著書「筆蝕の構造」を読んでみると、動きについてふれており「文字」は虚構の枠組みで「書く」行為こそが、人間の意識の表出であると。さらに表現に関して、とても興味深い論考をしており芸術の創造的営為を「はなす」「かく」「つむ・くむ」の3つに分けている(いずれも動詞!)。

はなす:人間が身体の各部のはたらきを総動員して、意識を中空に放出する表出行為。
「話す、放す、離す」
例)歌唱、演説、浪曲、落語、漫才、講談、コント、演劇、舞踊、舞踏、歩く、走る、跳ぶ…

かく:目に見える形で自然界に変形を加えて実現する表出行為のうち、自然に減算的(マイナス)変形を加える表出。
「欠く、掻く、描く、書く、画く」
例)文学、絵画、彫刻、書、文様

つむ・くむ:目に見える形で自然界に変形を加えて実現する表出行為のうち、自然物を積み上げたり、組んだりすることによって自然を加算的(プラス)に変形する表出。
「積む、組む」
例)陶芸、塑像、建築

そして、一般的には、話し言葉が先にあり、文字ができてきた後に書き言葉がうまれた、と考えられているが「かく」と「はなす」は人類誕生以来ともに存在しており、文字ができたときにそのふたつがつながり相互に飛躍した、と述べている。この「じつは最初からあった」という気づき。これまでのアーティストが表現しきれていないポテンシャルを感じるし、自らで体現されているように思う。「芸術的表現といえども『書く』ことは政治的、脱政治的、反政治的、非政治的閾値、つまり中国の専制権力との関係にあり、書くことの事態の自然な大らかな成長は抑制されていた。」と言われるとおり、もともとあったはずの「かく」という行為を書でつかまえて表出させようとする姿勢にしびれる。

ちなみに「書く」と「話す」の境界は「筆蝕」という概念を用いてクリアに線引きしている。この定義によるとPCや携帯での文章は「話す」に属する。

参考)石川九楊「筆蝕の構造」

書だ!石川九楊展

非常によかった。ひとつは書のイメージが変わったこと。「源氏物語書巻五十五帖」という、まるで映画のカット割りのようにワンシーンごとに違う表情のタッチで「各帖を象徴する箇所を拾い」書かれている五十五枚の大作があるが、光源氏が死んだときの「雲隠」と五十五帖目の「夢浮橋」は文字ではない。陳腐な表現をすると、雲隠は、ほぼ真っ黒に塗りつぶされたかたまりで無を表し、夢浮橋は一本のぎざぎざした極細な横線でThe end を表している。他は一応文字が書かれているらしいが、実際には文字なんてどうでもよくなってきて、物語を読みながら絵を観賞しているような気分にさせられた。不思議な感情。「これが書だ!」と言われるとおり、いい意味で自分の書に対する先入観を壊される。最初は幾何学的な模様に惹かれたけど、作品を実際にみてみるとむしろ真っ黒に塗りつぶされた書のほうが自分は好きみたい。李賀の漢詩を書にした連作もやばかった。印刷物でみると、文字どおり真っ黒に塗りつぶされたようにみえるけど、結果そうなっただけでむしろ過程を想像するとおもしろい。書いている映像をみると、たしかにちゃんと文字を右上から左下に向かって書いている。余談だが書くときにぽたぽたと墨が垂れてても全く気にすることなく、変なところに神経質になっていた自分にあぁそうだよなそんなの気にすることないよなとこれまた腑に落ちた。最終的な形を追いかけてもほとんどわからないけど、角度を変えてよくよくみると濃淡はあるし、何かが封じ込められている感はある。そしてそのたたずまいがなんとも美しい。ちなみに書の見方として、ご本人も過程に関して言及している。「形で見ないで、過程で見るということ。形っていうのは、結果ですから。文字をなぞってみて、そのプロセスを追っかけてみたら、ものすごくよくわかりますよ。書はプロセスを見てください。(ほぼ日刊イトイ新聞 2017年7月13日より)」「書が白と黒のコントラストの芸術だというのは嘘で、墨は影です。書においては墨の色を感じるのはよくなくて、言葉が生きて動いている姿が直かに感じられるというのが墨色の理想です。(書の美より)」
よかったことのもうひとつは破壊の美しさ。9.11や3.11をテーマにした作品はどこか混沌としていて規則性があるようでなく、その変な対象物にとても惹かれるものがあった。破壊への衝動か。悪いことではなく。解説を読むと「美しさ」という形容詞を使っていた。
「2001年9月11日、二十世紀と二十一世紀を分ける事件が起こった。この日から真の二十一世紀が始まったのである。悲惨な事件であるが、そう言って済ませるわけにはいかない。ツインタワーに飛行機は突入、というよりも吸い込まれるように消えて行き、ビルは自壊していった。その自壊に人々はどこかで美しさを感じ、酔いしれていたはずである。…それは行き過ぎた資本主義文明の自壊の姿ではあるまいか。」

 

参考)http://www.1101.com/kyuyoh/index.html