なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

遊牧民

器をつくって、人なりお金なりをプールして同時にいくつものことができるというのが会社のひとつの存在意義。器があれば、事業のポートフォリオが組めるのでリスクを自社内に閉じた状態でとることができる。個人プレーだと市場のニーズに合わせにいって目先の売りをたてながら、ぜんぜんお金にはなりそうにないけどすごい技術に投資するみたいな動きを取りにくい。で、市場に受け入れられたサービスがある会社が生き残っていて、実績があるからさらに冒険できるようになって、多少無茶だと思われるような事業にも突っ込みさらなる成長を遂げる。
ところが、最近では会社にしないとできないと思われたことが意外と個人レベルでもできんじゃんという仕組みができてきて、マイクロファイナンスしかり、バックオフィス業務の効率化しかりで、次々に便利なサービスが小規模にできている。ばらばらに存在していて必要なときに有機的に結び付いて集まりプロジェクトが終わったら解散してまた次のプロジェクトに。そうだとすると、何が失われて何が残るのか。

中間管理職

社長からしたらなんでできないのか。権限も与えた。能力が低いわけではない。でも現場を動かせない。足りないものがあれば言えと指示は出している。だけどまわらない。なぜかまわらない。社長の権限を使って言えばできることでも担当レベルがいくらいっても権限があるからといっても現場は簡単には動かない。そして現場の人たちはだいたい担当者より経験が目上のひとたちが多い。
そういう組織は、社長はできない理由がわからないし、担当者は上と下にはさまれて困る。結局は社長の右腕を育てるという人材育成に行き着くのかもしれないが。社内調整というとイメージはあまりよくないけど、違う人たち、自分は関係ないと思ってる人たちを巻き込むのは動かすためには必要で、開発や営業のなどとはまた違ったスキルセットだから、既定路線で優秀な人を抜擢しても期待してたほどの成果が出ない。新事業を立ち上げようとすると売上が100億の企業も1000億の企業も似ている。取締役会などプロセスが多少かたくなることはあるが止まる場所は人を動かせない点では同じ。

空気を読まない力

筋が通っていることにノーと言えるかがマネージメントの要諦な気がしてきた。正論を無神経に跳ね返す力。現時点では論理的でない意思決定をする勇気。たぶんこれは当事者でないと納得させられないし断行できない。コンサルのように第三者的なポジションだと、間違っているとわかっていながら断行できるだけの権限はない。いま間違っているだけで将来は勝てると読めている場合、根拠はない。その状態でまわりの反対を押し切れるか。賭けられるか。
正論を言ってくる部下がいちばんやっかいだという話を聞いたが、正論をノーとはねのける芯が必要で。現場から離れていないと、もしくは、現場に近くてもあえて空気を無視しないと判断できないかもしれない。デリバリーしようとしたときの弊害は下手に現実を知っていること。それが足枷になり最初から落としどころを考えるとつまらない案しか思いつかない。

全くもって本気

(この人は全くもって本気だ…)が面白過ぎる。

https://r25.jp/article/457769397635085606?

ふつう、わかっていても何かしらの理由をつけてやれない。変だと思っていてもいやいやできないよそれはという感じでやらない。やっていけないことなどないのに。まじで言ってんなこのひとというポジションと、わかってねーなこいつはというポジション。そとから傍観して痛い人だなと眺めるよりも当事者として貫き通せるか。というか本気でそう思えば貫くみたいなプレイをしているような表現にはならず、あたりまえの行動をふつうにできるか。やらされている感はいっさいない。
少し前に本田選手は代表でレギュラーの座が危うくなったときに逆に感謝しているとコメントした。凡人の感覚では本心から感謝していると言えない。マジで言ってるところがヤバい。なに言ってんだこいつはと思ってしまうようなことも筋が通っていれば(自分がそうするかはさておき)ひとには理解される。ある意味正直。嘘がない。だってそうでしょと言われてそうなのであれば、無駄に空気を読む必要などない。そして自分にインストールされれば考える余地もなく痛い行動をとれる。バカになれというのはまさに。

あくせく

タクシーの運転手さんに「空が高くなっちゃったねぇ」と言われた。もう秋の空。のんびりしている。こちらが分単位であくせくしているのとは対照的。地方にいくと感じるときの流れの遅さはどこからくるのか。タクシーの運転手さん、コンビニの店員さん、東京に同じようにあるものも同じではない。スマホももっている。もっているけど何か違う。そんなに急いで何がしたいん?と言われているよう。東京はなんでもあるけどなんにもないと誰かが言っていた。地域にはなんにもないけどなんでもある。
何かに突き動かされていると、詰め込みまくって、余裕がなくなる。プロの歌手はどんなにハイテンションでも喉をつぶすような歌いかたはしない。8割くらいの力でもテンションはマックス。それでも聴く側の気持ちはあがる。がむしゃらな歌でもがむしゃらには歌わずがむしゃらさを出している。このテクニック。そとからみたときに決して手は抜いていないのに余裕があると感じさせるのがプロだと思う。あくせくしている状態は手は抜いていないけど余裕はない。この余裕をどうやって作り出すか。

そんなこと言われてもどうしようもない

映画「おクジラさま」を観た。確かに、ふたつの正義の物語だった。クジラ、伝統、食、命に対する関する考え方が異なり(*1)前提条件が違う人たちが対立していて、いわゆる互いに「話が通じない」という状況におちている。法的には違反していない。だからと言ってやっていいことと悪いことがあるだろうというのが反捕鯨側の主張(*2)。価値観の対立。ひとつの正義ではないところに難しさがある。正義と正義。
自分はどちらを支持するかと言われれば太地町の人たちにつくだろう。日本人だからなのか。小さな町の人たちが困っているからなのか。価値観の押し付けに感じたからなのか。うまく説明はできないけどなんとなく「ほっといてくれや、わしらはわしらでやっとんやから」という漁師のセリフが心に残っている。ある日突然、いきなり外人が街にどかどかとやってきて自分たちの漁業にいちゃもんつけられ、海外にライブで発信され、世界でデモが起き、知らない世界でわけのわからない理由で否定されてしまう。あなた方にも説明責任があるといわれたところで、人口3,000人の街で海外向けの広報をたてるなんてできないし、そもそも英語ができないし、もともと漁師たちからすれば情報発信は自分たちの仕事ではない。そして世界は一方的な情報から判断し、当然それを見聞きした人たちはそちらに流れ、noisy minorityがあたかもグローバルスタンダードかのようになってしまう。
2005年に書かれたフリードマンの「フラット化する世界」という本がベストセラーになって以来、フラット化やらグローバリゼーションという単語をよくきくようになったが、その後の10年間でリアルな世界はフラットにはならなかった。映画のなかで「太地町が絶滅の危機にさらされている」とジャーナリストがコメントしていたが、世界はでこぼこで、グローバリゼーションの波が押し寄せてきて、その波に飲み込まれることを拒む人たちもいる。文化や伝統が関係していれば、生活に直結する問題にもなる。いくら便利だからといっても変えられない、もしくは変えたくない人たちもいて、その人たちに強要しても反発をうむだけである。分断されている。佐々木監督は「グローバリズムによって生活が脅かされている人たちは世界中にいて、太地町はその一つの象徴」とおっしゃっている(*3)。そんなこと言われてもどうしようとないというところまでいききってしまうと、なぜかぼくはローカル側につきたくなる。これがぼくのアイデンティティなのだろうか。すばらしい映画なので超おすすめ。

*1
TABI LABO 「おクジラさま ふたつの正義の物語」あなたは「違い」を愛せますか?
http://tabi-labo.com/282495/okujirasama

*2
少なくとも、太地町が捕獲している7種類のクジラは、絶滅危惧種に指定されているわけではない。世界動物園水族館協会はイルカの追い込み漁がノーだという判断をし日本にもそれを求めているが、太地町の水族館はこれを受けて日本動物園水族館協会から自主的に脱退。

*3
ホウドウキョク 「おクジラさま」の町 シーシェパードと合わぬ価値観
https://www.houdoukyoku.jp/posts/14776

 

理解できないことを理解するということ

小さなこどもは高いビルのうえから地上のひとをみてちっちゃい人がいると、自分がみたままを現実として受けとめるという話が引っ掛かっている。いまの学生は反戦デモをみて、未開の民族の集団ダンスと勘違いしたとか、映画タイタニックで最後に海に身を投げるシーンでエチオピアの人たちはみんな爆笑したとか。同じような経験は自分もあって、ゼロ・グラビティジョージクルーニーが宇宙船から切り離されて死んでしまうシーンで、隣のフランス人らしきひとたちは笑いを抑えられない様子だったり。どういう感性しとるんじゃいと自分からみれば違和感があることも他人からみればごく自然なことなのかもしれず。自分の主観的なフィルターを通して判断していて、そのフィルターは実に多様で、文化的な違いがあると互いに共通認識を持ちにくい。映画のように文脈をつくりこんでいる作品でさえ受け手の属性の違いで全く異なる解釈になる。
大人になるにつれいま自分は高いビルにいるから小さく見えているのだという認識ができるようになることで、その認識があたかも当たり前のように機能しはじめると、認識を持っていることさえいつの間にか忘れてしまう。自分が無自覚にどういうフィルターを使ってものごとをみているのかというのは常に意識しておかなくちゃならない。