なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

マクロ経済感

2020年まではほんとうに人が足りなくて新卒の争奪戦だ、まるで採用活動がバブル期のようといった話を聞いたけど、仕事が回らないくらい受注があるのだろうか。売上が伸びている、利益が出ているという実感がない。お金は循環すればするほどハッピーな人が増えるはずなので、どんどん雇用を増やすべきとは思うものの、現場感覚の忙しさと景気改善の実感がともなわない。いったいこの仕事は誰から発注されているのだろうか。そしてその仕事は誰かの役にたっているのだろうか。
「人がいないけど仕事はある」というのは生産性が一定だとすると労働人口が減っているという意味で少子高齢化の進行ともいえる。仕事を減らすかひとりあたりの生産性をあげるかしかないわけで。
冒頭の会話は、人手不足に備えた先行投資というより即戦力がほしいという文脈だったので、まさに各企業が現在進行形でこの問いを突きつけられている。年収が相対的に高くない人たちが既存のフレームにはめられて搾取されて消耗するのは世の中にとってよくない。雇用者側が人を奪い合っているようでは先延ばしにしているだけで人不足の問題は解決しない。

体験記憶

サッカーのゲーム中の感覚がふと思い出された。ボランチ固有の感覚。サッカーでしか味わえない感覚。ボールをきれいにとばしてぴたりと合わせる気持ち良さ。たぶんロングボールでサイドハーフに展開したシーン。高校か中学か。土のグランド。すべてのタイミングがぴたりとハマってミートしたときの感覚。全員がひとつのボールに連動して動いている。みえていない選手もどこにいるかだいたいわかる。ほかのスポーツの気持ちよさと違う。サッカーのワンシーン。単純に記憶を思い出したというだけでなく、自分がやっていた体験が再生された感じ。完全なる主観。その試合に勝ったのか負けたのかはどうでもよくてとにかくそのパスが絶妙な感じでとおったというだけ。たくさんのことを経験して重なっていくので、いちいちぜんぶを覚えておけないから忘れさられるけど、でもあの感覚は唯一無二で、なぜいまいきなりよみがえったのか。たぶんもうないと思い込んでいるあの感覚を無意識のうちに欲しているのか。センスと言われているイメージは個人差があるのでいまできなくてもそれをできる技術が身につけばできるようになる。センスがないと技術があってもいいプレーはできない。いま上手いか下手かではなくてそのセンスを持ち続けられるかというのは大事なことかもしれない。ジュニアユースの子たちがやろうとしていること、チャレンジしていることのほうが結果よりも大事でどんなことをしたいと思っているかというのは後に大きく影響する。フィジカルのピークは過ぎていまはできないけど感覚が残っている選手もやっぱり監督でなくフィールドとしている意味はあるような気がする。そこで何を考えどうしようと思っているのかを伝えられれば若手のセンスはみがかれる。

共通認識

人が不快に感じるシーンはある程度の共通性があって節度のある人はそれを守って関係をつくっていくのだけど、不快なことの認識が共有されていないと「えっ」となる。文化的な違いは許容すべきだけど、文化や社会以前に、人として誰かを差別的に扱ったり、傷つけるのはよくないということは、ある程度の教養をもったひとたちのコミュニティではベースとしてある。言っちゃいけないことは暗黙のルールとしてある。どれくらい相手の立場になって考えて、相手のことを慮れるかというのはその人の深みで、自己の利益や保身だけを目的としたような人は周りから離れていく。常識などないと思う一方で、常識感の似たようなひとでないときついとも思う。ひとつの船にみんなでのるなら、なおさら良いこと良くないことが共有できていないと厳しい。そのうえで、議論をたたかわせることはまったく問題ない。

お金の位置付け

確かに貰うもんは貰ったほうがよいけどお金にそこまで強いこだわりはない。だけどどうしてもこれくらい貰わないとやってられんみたいなことを考えるときもあって、そんな思考のときはその仕事にストレスが過剰にかかっている。お金でキャンセルしているような状態。なのでお金へのこだわりは自分にとってネガティヴなことがどれくらいあるのかというバロメータにもなっている。だいたいそのものに没頭できるときはお金のことはあまり考えていない。必要だから稼ぐのであって単なる手段に過ぎない。

しかし不思議なものでぜんぜん売る気のなかったビットコインもここまであがるとなぜか手放したくなる。手段とかいいながらやっぱりお金はたくさんほしいと思っているのかも。

解決と解消(おまけ)

女の子に関して、会話したいとかデートしたいとかエッチしたいとか個別サービスはコンビニエンス的に存在している。でもそのとき刹那的満足感が得られたとしてもまたすぐに穴ができてきりがない。時間軸を共有して連続的に接しないと自分の気持ちが解消されない。もやもやした気持ちのパッチではなくバージョンアップ。解決ではなくて解消。それが付き合うというソリューションか?気持ちの問題は点で捉えると永遠に解けない。

補足)仕事と私のどっちが大事なの?というよくある二項対立は、ハグというソリューションが有効かと思っているが、これは解消によって解決しているともいえる。

解決と解消

アインシュタインは「重要な問題は、それがつくられたときと同じ水準の知性では解くことができない」といっている。

The problems that exist in the world today cannot be solved by the level of thinking that created them.

問題を解く方法は解決と解消の2つがあり。その枠組みのなかで解くか、それを問題としないような枠組みをつくるか。アインシュタインは後者の発想だろう。

例えば、プラスの世界しか知らなかったプラトンの時代、2-4=0が当たり前だった。数を量としてとらえていたために、マイナス個という概念は存在せず、2個以上引けば0でしょと。でもマイナスがないと、2-4+4=4となり…2個から同じ数4個を引いて足しただけなのに、2個より大きな4個になってしまう(足し算と引き算は逆の関係であってほしいという思いに反する)。これはおかしいということでやむなくマイナスという概念を創造し「解消」した。いまでは当たり前のように扱っているマイナスも当時はラディカルな発想だったという。

あるものとして誰かが考えたことを与えられると、どうしても帰納的・連続的に考えがちだけど恣意的に与えられた条件を外してみると違った世界が広がる。技術的に条件を外すだけではなく、どうにもならない問いを立てたうえで外す。枠組みの超えかたも重要で雰囲気で超えるのではなく、ほんとうに必要に迫られ、現状ではどうしても納得できないがゆえに超えるべきである。本質的な問題を重要な問題として捉えること。抽象的だけど、何をするにしても大事なことと思う。

大人な対応

相手が怒っているのであれば自分が悪いと思っていなくても謝るべきか。非を認めることになるので簡単に謝らないという考え方もできるが、まずは怒らせたという事実があるのだから、謝ったうえで解決に向けて話をする、という考え方もある。たいてい怒りの原因は、事実誤認か価値観の違いによるものなので会話すればなんとなくはわかるけど、そもそも感情をぶつけてくるやつは少しめんどくさい。なので少なくとも相手が怒っているのであれば自分が悪いと思っていなくても、事態の収束に向けて、謝るという術を身につけてしまった。…という話を二十代のころからお付き合いしている美容師の方としていたら「最近、落ち着きましたね」と言われ。昔のぼくは簡単には謝らなかったでしょうと。自分の気持ちとは裏腹に相手に合わせた行動をするといういわゆる大人な対応は、ある意味、自分にウソをついている。とはいえ、関わり続けなければならない相手とバトルして付き合うのは疲れるし、労力を費やすのももったいない気がしているのでどうしても冷めた感じになる。付き合う相手を自分で選ぶかという話にもつながるが、あまりに負荷がかかり過ぎる場合には切るという判断もでてくる。