なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

アラサー営業女子は強い

ちょうどリーマンショックの前後に就職活動をしていて会社を選ぶ余裕もなく、バブリーな世代に通用していたお願い営業や人間関係営業など、情に訴えかけるようなスタイルだけでは当然買ってくれず、相手にとってのメリットを明確に提示し、ロジックでかためたうそのない提案をすることで、数字をあげてきた世代。売上や契約の数字でなよなよした男性たちを納得させ認めさせてきた世代。たいてい営業職で何回か転職している。そしていま30に差し掛かり、ばりばり活躍していて、下の世代の面倒もみなくちゃいけなくて、自分自身も荒波に揉まれてきた経験があるから(本人に言わせればそれが当たり前のだという基準をもっているのでたいしたことないという人が多いけど)言っていることはまっとうで筋が通っている。仕事は好きで自分の軸がある。こと恋愛に関していえば、顔も整っていてモテそうなのに、男性とすぐに友達にはなれるけど(男の性格がよくわかっていて、性格もさばさばしていて、面倒なザ・女子が嫌い)、それ以上の関係に発展しない。でもやっぱり女子だからそれなりに恋愛はしてきてもう傷つきたくないから新しい恋愛には余計慎重になる。男性からのアプローチも鈍感になってきて、かといって若いときのように自分からも飛び込めない。アラサーあるある。

人件費は価値の間接費である(続き)

人件費そのものに価値はない。人が動けばお金がかかるというのはサービス提供者側の論理で。人件費はクライアントからみれば無価値。単なる期待値。人のアウトプット(サービス)に価値はある。お金はサービスに払われていて、人そのものにはつかない。

にもかかわらずコンサルティングの見積りはたいてい人件費を使っていて。何をするのかわからない状態でお金をとるのは詐欺行為に近い。

クライアントはwhatに価値を感じているけどコンサルタントはhowでお金をとろうとする。what×how (何をするからこれくらい日数が必要)がかみあったときにはじめて金額交渉できるようになり。コンサルティングの営業はwhatの手前にあるwhyのベクトルを合わせることが最大のゴールなのか?

サービスを考えるのは、何に対してお金をもらうかってことと同じだから、自分たちの強みは何かって考えることと同じ。それがお客さんの求めていることなら取引成立。That's all. ぐるぐるまわって極めて当たり前の結論になってしまった…

補足)いわゆるファームはhowでは稼げなくなってきていて、提案時からwhatを提示しているというコメントをいただいた。すべきことさえわかれば自分たちでやれるのでhowにはお金をはらわないけど、優秀なコンサルタントとの関係はきりたくないので継続するとも。

howにも2種類あって第三者が代替するものとクライアントの現場が動くもの。deliveryとexecution がある。後者は一筋縄ではないので価値がある。

まとめるとwhatとexecution。何をするか決めることと実行すること。

人件費は価値の間接費である

どうやって稼ぐか。何に対して価値を感じてもらいお金をいただくか。自分たちの売っているものは何か、という極めて基本的な問い。サービスをつくるときにまずはじめに考えるところ。これに価値があるんですよと値段をつけてそれに魅力を感じた人が対価を払う。そういうシンプルな仕組み。
コンサルティングサービスは人件費という極めてあいまいな金額を提示するが、実のところ人には値段などない。確かにあの人はいくらとかよく言うけど、実際にはその人そのものではなく、その人が考えたことやその人のすることに価値がある。つまり、理論的にはまったく同じことを別の人がすれば同じお金がとれる。その証拠に、人がやっていた機能が機械化されると人の値段はさがる。しかしながら、人が人におこなう行為は人が違えば"完全に"同じ状態は起こり得ない。なので現実的には人マターで仕事は発生する。
コンサルティングに話を戻すと、仮に価値にお金がついているのだとすると、人件費は価値の間接費であるとも言える。タンジブルに価値だとわかるものとはレベルが異なる。なので人の値段はまだ発揮されていないという意味では期待値でしかなく、動いて何かが生み出されるまでわからない。過去の実績ですでに市場で評価されていればわかりやすいが、まだこれから売り出し中という人はまさに将来性を買ってもらうしかない。そこではやはり論理的にこういうことができます、これに価値がありますよね、というモノを実現されていない段階で説明し納得してもらう必要があり、それこそがまさにサービスの設計でもある。何が自分たちの強みか。自分たちにしかできないことは何か。それが突き詰められたところにお金はつく。見積上の名目は人件費かもしれないが、実際にはその先のサービスにこそ価値がある。

リネカーとピクシー

グランパスゲーリー・リネカーという選手がいた。当時、Jリーグがはじまったばかりで海外のすごい人がくると聞かされていて鳴り物入りで入団したけど、日本ではたいした爪痕を残さなかった。いまでは名古屋のファン以外で覚えている人はそんなに多くはないと思う。そして、リネカーが退団して直後ぐらいに、ドラガン・ストイコビッチという選手がきた。いまでこそピクシーは記憶にのこるスーパースターだけど、入団当時はそこまで有名人ではなかったように記憶している。
知識が浅い段階では、知らないからという理由で過去の経歴を参考にしがちたけど、それにとらわれすぎるといま起きていることをバイアスなく見ることができなくなる。どうしても自分の考えに引っ張られるように現実をみてしまい、あれ?こんなもんなのか。こんなはずはない。みたいに自分たちが誤っているかのように感じる。実際ピークは過ぎていてたいした活躍をしていないにもかかわらず。大衆の思考や期待感も、こうあるべきだという思いにしばられていく。でも大事なことはいまこの瞬間。いくら過去にスーパースターであったとしてもいま結果を出していなければただの人。そういえば、海外でも日本でもスーパースターとなった選手もなかにはいて、アントラーズジーコジュビロドゥンガはやばかった。常に現場でいま自分のいる舞台で結果を出し続け。まさにプロフェッショナルの象徴。

原油先物

さいきん原油価格が間違いなく上がるのでいま買えという圧がすごい。ていうかすでに何回かは上がっている。理由は以下のとおり。11/30のOPEC総会でほぼ原油減産が決定される。需要は右肩上がり。環境保護とはいうもののまだ世界は石油で動いている。ロシアが今回の減産に協調姿勢をみせている。原油安でサウジの国家財政がよろしくないので国として価格をあげたがっている。サウジアラムコの上場が決まっている。年に何回かしかない条件が揃っていると熱く語られたものの…うわさで買って事実で売るのは難しい。

評価の妥当性

賞与の季節になった。これだけやったからこれくらいの対価はもらっていいだろうという考え方はプロフェッショナルだし全く異論はない。だけど、そこをちゃんと考えて仕事をしている(もしくはできる)ひとはどれくらいいるのだろう。人事の評価はインセンティブや給料にはねるのだけど、そもそも会社からいくら払えるかみたいな総額を決めるってとこはえいやだとすると、パイの大きさ変えちゃえば各人の絶対値なんてどうとでもなる。
各自に払う額は、1)会社から払える額を決める。2)配分比率を決める。で決まるけど、お金の感じ方は人によって違う。なので、事前に双方で握っておいた目標設定への達成率を根拠にこれくらいですというとってつけたような説明をしている。正当な評価をすべく、評価基準の妥当性と評価の妥当性をよりどころとしている。それはそれで正しいしよい。
だけど…それだけではないものを感じていて。賞与は増やせば増やすだけ会社のお金は減る。でもなぜか第三者に経費として払うときとは違う気持ちになる。評価というより感謝に近い。お金でしか報いることはできないから評価という行為をしてお金を渡しているのだけど、単純なキャッシュアウトではない。投資とも違う。これぐらい出すからまだいてくれとかいま以上にがんばってくれとかいう気持ちでもない。ただあなた方のおかげでこのお金が作られたから分けましょうという仲間への還元。評価って感じではない。労使関係の欠如なのか。対外的にはシビアに価格交渉するけど、社内でそれをやってもと…そのエネルギーあるなら外に向けろよとも思ってしまう。

国民レベルで首脳会議ができるか問題

自分が「日本人だから」従軍慰安婦をどう思うかとか、過去の戦争で日本軍が拉致して酷い目にあったから謝れだとか、そういう質問をしてくる外人はどういう心境なのだろうか。「親が殺されたとか個人的な理由がある人ならまだわかるけど、政府や国のプロパガンダによって洗脳される人は愚かだ」と言っている人がいて同意。自分もどちらかといえば「だって関係ないやん過去の誰かのことなんか」と思うタイプなので個人として聞かれてもなんの感情もわかないしちゃんと考えたことがない。外にでたとき日本の歴史は知識として知っておくべきこととは思うものの、過去の過ちをいまでも怒っていてその国人間にぶつけるのは筋違いな気もする。日本という島国だからなのか。私を社会的、歴史的にどう位置付けているかによるのか。歴史のなかの私、みたいなところに鈍感なところは確かにある。直接的に危害が及ぶことがなかったというのもある。腹の底からほんとうにそう思って歴史に執着する心境が理解できない。国との距離感はあるのかもしれない。はたまたオーナーシップ問題か。自分は日本という国にうまれ、日本という国籍を持ちながら、とくに日本という思い入れがない。多国籍の社会で育てば自ずとそういうマインドになるのだろうか。