なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

オンラインでいること

ちょっとした時間にコンタクトできるメリットはビジネスのあり方を変えるかもしれない。わざわざセットされたのだからとだらだらと過ごすことは減り、必要なときに必要なひとで必要なだけ。5分や10分の会議のセッティングが簡易的にできるようになると、まとまった時間より細切れだけど回数を重ねる方向にいく。会議は人数が多いほど時間を合わせるのが難しくなるので、物理的に離れていたとしても時間さえ合えば参加できる。オンラインのチャット的に声での会話ができるようになれば、また違った世界が広がりそう。

パラグアイ戦

選手のコンディションは良かった。出てなかった選手たちが多かったのもあるかもしれないかど、身体のキレがある選手が多かったように思う。とくに、武藤なんかはのびのびプレーしていたし、ディフェンス陣も身体を張ってあたっていた。自分のイメージとプレーが一致している選手がいる一方でそうでない選手もいて。乾は決定的なチャンスをふかしたときとか、ドリブルでゴールラインをわったときは天を仰ぎ、前半は明らかに思うようにいっていなかった。後半はフィットさせてきたところはさすが。香川はあいかわらず香川でボールの持ち方とかパスのさばき方はやっぱりうまい。戦術に関してはパッチワークみたいな感じで、3人が連動することはあるがそれは選手間の意思疎通なだけでその場にいたらこう動くだろうというレベルのものだから、ダイナミックさを感じない。近くで見えている選手だからパスをつなぐという当たり前の行為で、事前に決めごととして自動的に先を見越して動くというかたちは見られなかった。スタッツをみると支配率も高く一見すると繋がっているようにみえるが、パラグアイのプレスがなかったという見方のほうが正しい。後半はずいぶんと改善されて、チャンスを作りだす確率があがり、崩してフィニッシュにまで至った。プレーは想像できてしまうとおもしろみにかける。それでも勝てれば全く問題ないけど、ゲームは支配しながら一瞬の隙をつかれて失点もあり。枚数が足りていても点を取られる。誰かがあたりにいけよといえばそうではあるけど、相手はそうならないように動いているのだからゲームの中でそういうシーンをゼロに抑えることは現実的ではない。インタビューでは各選手「チームとしてやるべきこと」「チームとしてできていた」とチームワークを強調していた。日本チームは一丸となっていると。ワールドカップ本番はタフなゲームになることは間違いなく、苦しい状況であることは予想されている。そのうえでどう戦うか。このゲームに関して勝敗は気にしていないとはいえ、勝ててホッとしたというのが本音と思う。

方法論を押す

方法論を押すタイプか、プレーヤーをチューニングするタイプか。後者でがんばってしまう人が多い気がする。とにかくやらなければならないという状況があって、もしくはやるべきことを押し付けられていて、なんとか推し進めようとする。たしかに方法論が正しいとすれば、ある程度まではがんばる必要があるけど、それでももしうまくいかないなら、方法論を疑ったほうがよい。方法論を押してくるタイプの人はこれまたやっかいで、その方法を強く信じていて、原理原則で攻めるのは正論だけど正論で押すだけではちゃんと機能しないこともある。方法が正しくないのは、ワークしないから正しくない場合と、そもそも正しい方法ではない場合がある。もし、前者だとすればポジティブに方法論を変えるべきで、歴史的な経緯や、構造的な問題のせいで、イマイチだと思いながら現実に寄せることは進めるという意味では悪くはない。あるべき姿からはマイナスにも取られがちだけど、何も進まなくなってデッドロックするくらいならできる方法でちょっとでも前に進めたほうがよく。実務の人間はそうやって戦っている。

市場とはなにか

市場は誰が決めるのか。市場はつくるものである?市場なんてあるのか?市場をみたことある人はいるのか?
リアルにあるのは個々の商取引だけだ。それらが無数にあって、誰かが後付けでグルーピングしているだけにみえる。市場規模とか市場があるとかないとか、それこそ魚が1匹売れれば市場で、それを集約するのって傲慢じゃないか。どれくらいの市場規模(売上予測)があるかは、その会社だけの指標だから、顧客視点ではない。購買行動はカテゴリーづけられた単純なものではないので、そこでやっぱり企業側の認識のズレが生まれてしまう気がする。ただその製品が売れるという事実のみで最初から市場なんてない。
この話をしていたら「野菜とか、果物とか、魚売ってる場所ですね。」と教えてくれた人がいて妙に納得。市場とは売っている場所。場所という定義はしっくりくる。あるのはwhatとwhereという状態だけで、whoとかwhy(売りたいと思っている人やマーケティングした結果としてのカテゴリ)などはわかりようがない。複数の解釈ができることは、決めたとしてそうでもあるし、そうでなくもある。場所はなんとなく「いちば」に近い。「しじょう」と「いちば」は本質的には同じだが「いちば」のが親しみがもてる。「しじょう」はひとつの製品がたくさんの人に売れるときにつくられた概念だとすると、もはやそういう時代ではない。

そういうこと

深夜2時くらいに何十万と接待していい仕事したなと思ってた矢先に、いきなり社長から電話がかかってきてクラブのねえちゃんにタクシー代を払わなかったことに激怒されたという話を聞いた。払わなかったことであとから請求される額が高くつくという理由から。無駄なことにはいっさいはらいたくないし、払う意味がわからない。そういう感覚は圧倒的に正しい。正論はむかつく。けど正論は正しい。だからこそ人として付き合いたいと思える。人はいくつもの帽子をかぶっているけど、そのポジションでしかるべき行動を貫く人は瞬間的には反発されるけど最終的には人がついてくる。コピー代数円でも蛍光灯の節電でもめちゃくちゃむかつく。たぶんそういうこと。

やり方が違うだけ

やる気がおきないのはやるべきことが間違っているわけではなく、やる気を起こさせるコンディションにないことが問題。やる気がないのは自分のせいではない。やる気がでるような状態においていないことがまずい。体調をよい状態にキープしておいたほうがいいに決まっているし、気持ちが前向きになるようにつくったほうがよい。方法論は何回なおしてもよく。もしそれでものってこないのだとすると、まじで自分が好きになれないことなのかもしれない。でもたいていのことは好きになることはできて、そのためにやり方を疑い、自分に最も適した方法を編み出すのはやることそのものより重要だと思う。まじめにがんばるのも大事だけどがんばれないときに自責にするのではなく自分に合っていないだけだと考えること。視点のずらし。まわりは批判してくるけど誰かに言われてよくわからないままできるくらいなら自分で考えて納得したうえで失敗したほうがよいとすら思える。短期的には結果がでないかもしれないけど、長期的には自分で決めたことが勝る。

おつかれさまでございました

「おつかれさまでございました」と、とっさに顔色をみてかける言葉を変えるCAさんは素敵だなぁと思う。「ありがとうございました」と心を込めて言うことはできるけど、そのひとの状態状況をみて適切な言葉を選べるか。丁寧な言葉遣いでマニュアルどおりに接してもらえれば、マニュアルが素晴らしいこともあって気持ちがいい接客をされることもあるのだけど、ふといつもどおりでないことがおきたときに、機転を利かせて言えるか言えないか。日々自分の言葉として意味を理解してちゃんと伝えているかが問われる。しかし疲れていた顔色でもしていたのだろうか、なぜ仕事帰りだとわかったのだろう。