なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

最近、土日は泳いでいる

ストリームラインをキープすることを意識しながら泳いでいる。止まりそうになっても足をつかずに浮かんでいることができるようになった(そいえばガチでやっていたときこれできてたっけ?)。長い時間だらだら泳いでいると感覚が変わる瞬間がある。重心は胸のほうに上半身でもっておくと腰が浮きやすいんじゃないかとか。力の入れ方と力を入れる場所はちょっとした違いでぜんぜん楽になったりする。水をかくときは腕の力を使わずに全身で背中を使って引いてくることができるんじゃないかとか。へんなくせのある泳ぎ方で疲れないよう集中して泳いでいると、次々と改善点や発見がでてきて、飽きない。土曜夜の市民プールはガチ勢が多くておかげで2キロくらい連続で泳いだ。サークルでもないのにこんなにもしかも25メートルプールで泳いだのは久しぶりだなぁ。筋力的なところよりも心肺的なリミテーションでスピードがあがらない。こればっかりは地道にやっていくしかない。自分がやにならない程度に。運動することは心身にとって間違いなくよいこと。

パートナーシップ

はあちゅうさんのインタビュー記事(*)にとても共感した。


1.とりあえず付き合ってみる
2.心を許し合う関係になる
3.二人でどう乗り越えるか考える


恋愛結婚の王道だと思う。事実婚がとりあげられがちだけど、すごくちゃんと考えた結果のベストな選択てことを感じさせられる。事実婚でも法律婚でも結局このプロセスは変わらない。ぼくは恋愛は意思決定だと思っていたけど、意思決定するのはもしかすると1のところまでで、それ以降は決めるというより、そうしたいという選択になるかも。いわゆる「自然に惹かれ合う」というフェーズで。はあちゅう自身も「恋愛ごっこをして、適当な時に卒業して、この次の恋愛で結婚だな、とつなぎ的な位置づけで付き合いはじめ…」と言っているけど(こういうことをつつみかくさず言えるところも素敵やなぁ)自然に「心を許し合って」いたよう。
Twitterで中島智(@nakashima001)さんが、恋愛は他者と関係することで「自己変容の体験」と言っていた(**)。まずは理解して受け入れいれる。もちろん受け入れ難いことはあるしそうやって影響されながら関係性をつないでいく。健全なパートナーシップは嘘がない。嫌のことも良いこともちゃんとお互いで向き合って解決しようとしている。


* 2018.8.5 Re.ing[リング]|note(ノート) 「自立した個人として、一緒に人生を歩む。」“事実婚”を選んだはあちゅうさんが築くパートナーシップのかたち
https://note.mu/reing_me/n/n794151f7ed42


**「たとえば恋愛において、相手(他者)と出会うために、相手の情報を聞きだしても、それが聞く側がもつ枠組みのなかでの理解なら、実質的にはすれ違っている。互いに自らの枠組みを変形されたり、更新させたりしながら、他者にチューニングしていく、自己変容の体験によってしか、出会いは成就できない。」
https://twitter.com/nakashima001/status/1023548017901621249?s=20

発想×表現

どちらがかけても伝わらない。考え方が正しかったとしても伝える順番、言葉使い、伝え方を間違えると心を動かさない。話すことで価値を提供している仕事の人たちはいっぱいいる。話す内容はコピーできるけど、何かが足りなかったりする。話す内容を深く理解したうえで、かつ、適切な表現方法を使いこなすべき。
しかしながら、発想は表現に依存しない。なので、仕組みを作るときと違う頭の使い方をしなければできない。裏を返せば、発想や着眼は自分のない内容でも理解できる。誰かの考えたことをコピーして真似ることはできる。でもオリジナルのコンセプトはそれだけでは生み出すことはできないし、そちら側のトレーニング(量の蓄積)をしていないとにじみ出てこない。

ふかいとこでのせめぎ合い

問題があることは問題ではない。問題があることを率直に話せないことが問題で。互いの関係性においてはある程度の気遣いはいるけど我慢しなくちゃいけないのはよくない。例えば、自分が苦しんでいて言えば解決するかもしれないのに、言ったら相手を困らせてしまうという理由で言えないとか。相手を思って言わないのならまだしも、言えないてのはコミュニケーションが健全ではない。たまたま今日、箕輪さんと水道橋博士Ameba TVでリアルに殴りあっていた。堀江さんは試合後、この「HATASHIAI」のコンセプトに関して「お互いのさ、思ってるところを全部パンチではきだして、それがはたしあいのいいところだよ。リアルに因縁がある2人が殴り合って抱き合って握手して帰る。どっちが勝っても。」とコメント。ストレートな企画でわかりやすいし、なによりみているほうもおもしろい。たぶん戦国時代はそれで命を落とした人たちが何人もいたんだろうけど、現代は別に死ななくたってできる。嫌いなやつを殴る。なんて直接的だろう。なであっているようなコミュニケーションよりも深いところを。えぐりあうような本音をぶつけ合うほうが圧倒的によい。 

能力は合わせるか合わせられるか

結局成長したいと思っているやつしか成長しないし、そうなってほしいといくら願っても本人がそう思わなければ変わらない。人の能力にあわせて仕事は作らなくちゃいけないと思うようになった。もし相手が子どもだったとすると大人ができるように整えるのはあたりまえにできるけど対大人だとそれが「なんでこちらがそこまでやらなきゃならねんだ」ていう考えがよぎる。でも「できないとかできるとか関係ないし、仕事なんだからやれよ!」ていうロジックが通用するのは一部の人たちだけで。仕事なんてやりたいと思っていないし、でも仕方なくやっているひともいる。退屈だなと思える作業もある意味そういうことしかできない人にとってはフィットする仕事なわけで従業員をどんどんストレッチさせてぐんぐん会社を成長させるっていう思考は、共感できるひとだけでやればよい。そういうやつらもいるし、そうでないやつらもいる。どうせ働くなら楽しく働いたほうがいいよねっていうのも仕事にかける思いや立場が違えば違ってきたりする。そのあたりのレベル感をあわせるのが組織設計、採用というプロセスなのかもしれない。全部をひっくるて引き受けるのが会社という公器。

ありきたりな幸せ

結論は出ていない。出ない(正確には出さない)ままに1ヶ月がたった。別れたことによる喪失感からか、自分にとって意味があるチャレンジだと思ったからか、実際には次の人にいった。それが正しかったかわからない。こうやってもやもやしながら進んでいくもんかもしれない。すごい楽しい時期に無理やり別れたこともあり、でもいまは別の人と付き合っていて。それだけの理由で付き合うことができない。それだけの理由。期限をきった人ときらなかった人。「すごい好きだけど付き合っている人がいるから付き合えない」というのはダサいか…矛盾させたこたえかたはよくないのかな。別れて冷静に考えたけど違うと思ったから付き合えないのほうがストレートか。好きだけど付き合えないてのは、自分を守っている?だったら別れればいいじゃないかというのはまったくもって正論だけど、割り切れない。割り切れない何かがある。結局、女子は恋をして結婚して子どもを産んでと、ありきたりの幸せを求めている人は多いと思う、ていうことばが重い。ありきたりな幸せは簡単なようで手にすることが難しい。