感情論
コミュニケーション的に相手の考えを汲み取ってそうなるようにすることはおおよそできる。したいかどうか、しなければならないと思うかどうか、ここだと思う。相手のことをいくら好きでも嫌だと思うことはありそれをじぶんの中で折り合いをつけてやれるか。感情はそうした面倒を超えさせる。親が子供に対して愛情を持つよう遺伝的に埋め込まれているのは理不尽だと思ってしなくなると子孫繁栄しなくなるからでは。大人になって誰かのためにしたくなるのも。恋とか愛とかそういう感情は、自分にとって好ましくない、かつ、相手が望んでいることにいどむためのガソリン。嫌なことは嫌で、すべて自分で完結すると周りに人は集まらない。それならそれで生きて行けるけど、精神的に満たされにくい。選択の問題。
メディカルAI
AIはデータが価値を持ち、そうなると個人情報保護が関係してくる。日本の場合、学術研究や臨床研究という用途であれば比較的データを使いやすい法律になっているそう。問題は商用利用する際にどこまでデータの使用を認めるか。研究段階のデータに基づいているので、データなしでは開発できないが、データを自由に使っていいかと言われるとそうでもない。法律家のなかでも、医療における患者データの利活用について、まだ議論が深められていない雰囲気。鎮西先生の「データは薬の原液に近い」という例えは秀逸だった。薬の作用機序は一昔前はわかっておらず、よくわからないけど効果があり、統計的にしか評価できない。そして、薬の研究開発における原液は最も価値が高く、機械学習に置き換えるとそれがデータになる、とのこと。
原画の威力
筆を使った瞬間に技術のなさを実感。思い通りにぬれない。力の入れ加減、気温や湿度、筆の角度。単色でも同じ色は2度と出せないとさえ思う。ベタ塗りしようとするほどムラがうまれ。ウォーホールがシルクスクリーンで同じものを大量生産したがったのも、村上隆が美大生に分担してもらうのも、ジェフクーンズが自分で手を動かすと間に合わないからプロデュースだけするのも、一流の印刷会社と組んでプリントでどこまでいけるか挑戦するのも、なんとなくわかる。完璧にするほど消費に近接するが、消費にしない着地点をそれぞれがつくり出している。極めれば一流シェフの食事もアート作品にみえてくる。人の心をザワつかせる。プロセスを記録するのもおもしろい。プリントやデジタルの表現力が原画に足りない理由もわかる。キャンバスを小さくするほど技術のなさが浮き彫りになる。関係性のアートについて、今日、作品単体では成り立たず、双方向でとけあわないと、絶対に成立し得ないのだということをなぜかはっきりと自覚した。自分の理解だけでの解釈。モノをみてどう感じるかは自分を超えない。同じものでも知った後と前で感じ方がぜんぜん変わる。
講演のまなび
優れた講演は人に示唆を与える。答えを述べるだけではなく聴衆に議論の観点を与える。自分の経験値を使うことも大事だけど最初から相手に対して開かれている。ユニークな課題設定はとても楽しい。