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仕事と彼女と人生観

ひとことの重み(続き)

 

言葉のもつ本来的な意味はほとんど変わらないのに、その言葉の重さは文脈によって大きく異なる。だから、言葉をそのまま捉えようとしても、自分のなかにある感情に引っ張られて公正に扱うことができない、ということに関連して、西谷啓治という哲学者が「イマージュ」という概念で非常にクリアに整理している。

 

『イマージュの原本的な働きを知るためには、まず、最も原初的な知である「感覚」に遡って見なければならない。 感覚の特色は、例えば冷暖自知と言われるように、冷・暖という直接的な経験、純粋な経験に、これは「冷たい」とか 「暖かい」という「知」が具っているところにある。感覚において「もの」は、ものに即して端的に知られている。言い換えるならば、感覚においては、ものを「見る」働きと、ものが「見えている」こととが一つに成立している。私がリン ゴを見るところで、リンゴが見え、鐘を音を聴くところで、鐘の音が聞こえ、また、私が海を見るときに、海の光景が 眼前に聞かれてくる。ここで注目すべきことは、ものが「見えている」ということは、その都度その都度の一回きりの 感覚に、それと同時に、ものを内から照らすような「固有な知」が具うことで初めて可能になるということである。そ の知は、その都度その都度の感覚ではなく、感覚を超えたものである。しかし、それはものを離れた知性や概念で はなく、ものに結びつき、ものに具わった知である。その意味でそれは「理外の理」ともいうべきものである。そのような、ものと一一体になった知を西谷は「イマージュ」として捉えるのである。事物にはそのようなイマージュがいわ ば種子ないし萌芽の形で含まれている。感覚を通して、事物の内からイマージュがイマージュとして目覚め展開し てくることで、ものがいわば内から知られ明るみにもたらされてくる。そのことはまた、ものが見えているところでは、 「人間に具わる全能力が一つになって」その感覚する働きに現れているということでもある。 』

 

大雑把にまとめると、感覚+知=イマージュで、我々はイマージュを通じて物事を捉えているという。イマージュという概念は、おそらくもっと深遠で、ぼくの理解は足りていないと思うけど、表面的にはこの考え方がとてもしっくりくる。

感覚と知が切り離せないならば、そのバランスはどうか。知が全くなければ、言葉はすべて記号的なものとして処理されるけど、それだと世界は無色透明に感じる。超絶ブサイクに好きと言われても絶世の美女に好きと言われても同じように反応するなんてあり得ない。逆に、感覚がなければ、単なる先入観で捉えているに過ぎず、目の前にある物事をみているようでみていない。

巷では「ファクトベースで考えよ」とか言うけれど、ファクトとはなんなのか。仮に、客観的事実として、感覚のみをファクトと捉えても、人によって知が異なるから、現実は論理的に導かれる結果にはならないこともある。ていうか、論理の力だけで動くほど現実は単純ではない。むしろ、各々の知も含めてファクトとして捉えたほうが、現実に即した結論が出せる。例えば、A案とB案を選ぶときに、客観的にはA案のが優れているけど、ステークホルダーがB案を主張しているから、おそらくB案のが強い、なんてのはどこの会社でもある。

知の相互理解は、男女関係においても、ビジネスにおいても、最も人間的で感情的で難しいところだと思う。

 

参考)京都大学大学院文学研究科・文学部
「第19回国際宗教学宗教史会議世界大会(IAHR Tokyo 2005)企画報告集」
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/religion/rel-annual2005-top/