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なにそれ経営者のブログ

女の子は好き。でも結婚したくない。

言葉に追いつく瞬間

子ども「なんで階段があるの?」親「高いところに登るためだよ。」という会話が聞こえてきた。思わぬ角度から疑問がわくんだなぁと感心するとともに答えるほうもたいへんだなぁと。日常的にそういう会話はしていてそんなことにいちいち構ってられない(実際すぐさま次の関心ごとにうつって目の前のお菓子に夢中)のだろうけど、間違ったことを言っても盲目的に信じることもあるし、間違っていても学習してしまう(修正すればいいだけだが)。言葉を話すようになると、答えられない問いを簡単に作れるので、知的好奇心なのか言葉遊びなのかはさておき、言葉の発達のほうが道徳観や倫理観に先行する。表面的に言葉じりを捉えて外堀が先に埋められる。例えば、誰かを好きになることや傷ついて落ち込むことは、経験して自分で認識しないとわからないので、子ども「あの人なんで泣いているの?」親「悲しいからだよ」子ども「ふ〜ん」みたいな会話はコンテキストが共有できていない。子どもはなぜ悲しいかがわからないので、言葉としてしか理解できない。映画のロボコップで最後「人間がなぜ涙を流すのかわかった気がする」というのに似ている。先の会話で、その答えでいいのか。子どもの疑問にちゃんと答えられているのか。などと考えてしまった。
大人とは何か。例えば「大人の事情」というワードは、空気読んでね、言葉ではそういっているけど不条理な理由があるんだよというニュアンスの意味で使っている。本音と建前を使い分ける、というテクニックを身につけてしまったひとは「大人」。なぜこれができるかというと、誰かに対して言っていいことと悪いことのラインを引けるからであって、言葉を道徳観や倫理観の配下におさめ、暴走しないようにコントロールできているからでもある。無邪気に思ったことを言うのは社会的には稚拙だと見られがちで(創造性においては極めて重要な要素ではあるが)「子ども」。道徳観や倫理観などの認識が言葉に追いついてしまったときが「大人」になる瞬間なのかもしれない。逆に、ブッとんだ考え方をするのは自己認識を超えて言葉で表現することで、ある意味では幼稚な子どもと言える。今日はこどもの日。