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書だ!石川九楊展(続き)

紙に書かれた言葉なのに奥行きがあるようにも感じられた。太さの違う線が幾重にも重なりあっていてその四角い紙全体ではじめて完結しているようにもみえる。ひと文字だけでは不完全で動詞的に生きたまま存在しているよう。その場に留まっていない。方丈記の一節で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」のくだりがあるが、古典シリーズに方丈記も展示されてあり、まさに。あまりに衝撃をうけたので著書「筆蝕の構造」を読んでみると、動きについてふれており「文字」は虚構の枠組みで「書く」行為こそが、人間の意識の表出であると。さらに表現に関して、とても興味深い論考をしており芸術の創造的営為を「はなす」「かく」「つむ・くむ」の3つに分けている(いずれも動詞!)。

はなす:人間が身体の各部のはたらきを総動員して、意識を中空に放出する表出行為。
「話す、放す、離す」
例)歌唱、演説、浪曲、落語、漫才、講談、コント、演劇、舞踊、舞踏、歩く、走る、跳ぶ…

かく:目に見える形で自然界に変形を加えて実現する表出行為のうち、自然に減算的(マイナス)変形を加える表出。
「欠く、掻く、描く、書く、画く」
例)文学、絵画、彫刻、書、文様

つむ・くむ:目に見える形で自然界に変形を加えて実現する表出行為のうち、自然物を積み上げたり、組んだりすることによって自然を加算的(プラス)に変形する表出。
「積む、組む」
例)陶芸、塑像、建築

そして、一般的には、話し言葉が先にあり、文字ができてきた後に書き言葉がうまれた、と考えられているが「かく」と「はなす」は人類誕生以来ともに存在しており、文字ができたときにそのふたつがつながり相互に飛躍した、と述べている。この「じつは最初からあった」という気づき。これまでのアーティストが表現しきれていないポテンシャルを感じるし、自らで体現されているように思う。「芸術的表現といえども『書く』ことは政治的、脱政治的、反政治的、非政治的閾値、つまり中国の専制権力との関係にあり、書くことの事態の自然な大らかな成長は抑制されていた。」と言われるとおり、もともとあったはずの「かく」という行為を書でつかまえて表出させようとする姿勢にしびれる。

ちなみに「書く」と「話す」の境界は「筆蝕」という概念を用いてクリアに線引きしている。この定義によるとPCや携帯での文章は「話す」に属する。

参考)石川九楊「筆蝕の構造」