なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

目的的に考えると世界は狭くなる

謝ることに意味はあるのか。ごめんなさいと言ったところで、やっちまったもんは変わらないし、気持ち的に何か変わるかというとそうでもない。謝るという行為が、ある一連の手続きになってしまっているようで、謝ることで謝ったほうも謝られたほうも何も変わらない、と考えると意味はないように思える。とくに理性に偏って考えているビジネスの場においてはなおさら。最近だと北朝鮮がミサイルをとばして日本政府が猛烈に抗議したとかあったけど、そのレベルに近い。具体的な行動を変えさせるための働きかけではなく、やる前とやった後で何か変わったんかい?という不毛さを感じる。
だからといって何かやらかしたときに謝らなくていいかというと、そうではない。意味はない。意味はないけどやるべきことはある。そもそも、人の行為に意味をいちいち考え出すと、答えのないことは山ほどある。朝起きて、おはよう、と挨拶を交わすのも突き詰めれば意味はない。けどみんな挨拶をする。そして毎回おなじおはようではなく、異なる距離感、タイミングで、違うおはようが毎朝うまれている。目的的な思考はそこにはない。社会はサイエンスだけで成り立っているわけでなく、もっとノイジーでカオスに満ち満ちている。意味や論理の厳密さを求めようとすればするほど、人間そのものの感覚から遠ざかり、人間はその違和感を感じ取れるだけのセンサーがあるのでいわゆるしっくりこないという状態になる。そういうモードに入っているときは意味ないよねとか言えるけど、人としては少し不自然なことをしているようにも思う。