なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

理解できないことを理解するということ

小さなこどもは高いビルのうえから地上のひとをみてちっちゃい人がいると、自分がみたままを現実として受けとめるという話が引っ掛かっている。いまの学生は反戦デモをみて、未開の民族の集団ダンスと勘違いしたとか、映画タイタニックで最後に海に身を投げるシーンでエチオピアの人たちはみんな爆笑したとか。同じような経験は自分もあって、ゼロ・グラビティジョージクルーニーが宇宙船から切り離されて死んでしまうシーンで、隣のフランス人らしきひとたちは笑いを抑えられない様子だったり。どういう感性しとるんじゃいと自分からみれば違和感があることも他人からみればごく自然なことなのかもしれず。自分の主観的なフィルターを通して判断していて、そのフィルターは実に多様で、文化的な違いがあると互いに共通認識を持ちにくい。映画のように文脈をつくりこんでいる作品でさえ受け手の属性の違いで全く異なる解釈になる。
大人になるにつれいま自分は高いビルにいるから小さく見えているのだという認識ができるようになることで、その認識があたかも当たり前のように機能しはじめると、認識を持っていることさえいつの間にか忘れてしまう。自分が無自覚にどういうフィルターを使ってものごとをみているのかというのは常に意識しておかなくちゃならない。