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仕事と彼女と人生観

解釈の隙間

吉田選手のハンドをめぐる良記事(*)。FIFAの定めるハンドの定義はこうだ。「ボールを意図的に手または腕で扱う(ゴールキーパーが自分のペナルティーエリア内にあるボールを扱う場合を除く)」。意図的というところに解釈の余地があるそう。VARが導入されても事実の解像度をあげるだけで、それが意図的かどうかは人にしか判断できない。審判は自らのジャッジをロジカルに説明できるという。説明できてしまうと心情的には違っていても別の結論に到達することがある。ロジックは感覚を超える。「そうなんだから仕方がない」と気持ちを閉じ込めることもある。ディフェンスの無意識の意図ということまで考えだすともはやオフェンスの意図が上回らない限り、説明ができない気がする。意図とは「何かを行おうと考えている事柄や、思惑、もくろみのことで、意図的は目的や考えを持ってわざとするさま」。ディフェンスは「守る」という意図があるから、自然に手に触れたようにみえても、そのコースに手を出したと簡単に説明がついてしまう。なんだかすっきりしない。本当に意図がなかったとしても説明がつかないという理由で、意図があったとみなされることへのもやもや。手を後ろで組んでいる選手もみかけるが、ハンドをしないという意思表示か。アクティブにノーを示せばイエスではないという抵抗。手を使わなければ身体のバランスは取りにくくなるので、ハンドのリスクと動きにくさのトレードオフ。解像度があがることによる選手への影響。テニスではインアウトの判断が微妙なときにチャレンジできる制度があるが、回数は決まっている。ゲームの流れを重視。みえないものがみえるようになり、あいまいさは排除できる。一方で、際どい判断を迫られる。説明が求められる。正しさは倫理観なので、立場によって異なるため正解はない。ルール=ロジックである。人間はロジカルだからといって正しいと感じられないこともある。VARは同時にルールの正しさも私たちに突きつけている。


* 2019.3.2 日刊スポーツ「吉田麻也はハンド?VAR判定導入しても異なる解釈」
https://www.nikkansports.com/m/soccer/column/writers/news/201903020000397_m.html?mode=all