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仕事と彼女と人生観

堕落論

結婚観として、慢性的な闇に対するソリューションのことを考えていたころは、自己肯定感もまったくなく「ああああーーーっ」となっていて、自分を引き上げてくれる存在への憧れから、誰かに頼りたくなる心境で、そのひとつの解が結婚という位置づけだった。自分が堕ちているときに、純然たるやさしさに触れれば、そら心が動かされるやろと。

自分で背負えないと、いわゆる奴隷的精神状態で、一方的に言われ、外圧で動かされているので、当然ながら「だったらお前がやれよ」という反発心もでてくるし、不満をもつ。自分が変わればその環境は脱することができるので、本来的には自分のせいではあるのだけど、その状態に陥っていると、自分のせいではないと思い込んでいるので、不平、不満、怒りに満ち溢れていて、「世の中全員敵」的思考になる。せめて、自分が背負っていて、自分の選択だと思うことができれば、ハイプレッシャーで過度なストレスがかかったとしても、自分の責任だと思うことができるので、まだ救われる。他人がやったことに対して、自分が責任を負わされ抑圧されているという状態がいちばんつらい。精神的余裕がないと、ちょっとしたことも受け入れることができない。

ただ、その状態で底を打って少し回復してくると、他人の優しさが前ほど響かなくなる。そうなっていはいけないとは思いながらも、自分にしてもらえる優しさが薄まって、感じ取れなくなる。前ほど沁み込まない。不況のときに売れていた物が景気が回復してくると売れなくなるように、だんだんと、求める存在、期待する効果が変わる。絶望的状況であれば、ほんとに誰でもよいのだけど、困ったことにそこから抜け出すと、今度は選べなくなる。誰でもよくはないけど、楽観的に誰でもいいというのは案外正しい。

 

坂口安吾は言っている。「戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。」

坂口は、この前のほうで「破壊が好きだ」とかやばいこと言ってるけど、わからなくはない。絶望的状況に見出される美しさは、人がいつ死ぬかもわからないという状況下で麻痺っている。けどちゃんとそれは「人間の真実の美しさではない。」としてちゃんと否定もしている。

そして、最終的には「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」と言いながらも、堕ちたからといって「美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つ」で「人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる」と人間の弱さも認めている。これは、絶望から脱したときに、女の子を選べなくなる心境に近いのか!?

ちなみに「堕落論」はとくに最後、結局人間だから堕落するんだけど、堕落しても処女のままで終わらせたいって気持ちはなくならないよね、だから正しく堕落しよう!ってとこが好き。

「人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。」

参考)坂口安吾堕落論