なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

共通認識なんてない(続き)

ネタとしての笑いには、文脈から作り出してくれる笑いと文脈を前提として取りにくる笑いの2種類がある。後者は前提を知らないと、笑えない。前提がないとフリがないのでオチもわからない。例えば、芸人のモノマネとか、誰々がするから面白いとか、誰かを知っているから笑えるネタ。年末の「笑ってはいけない」で斎藤工の絶叫に感じたもやもやがそれかもしれない。確かにウケた。ネットでも絶賛されていた。
で、済むならまだしも視聴者の怒りをかってしまうこともある。悪気なく。笑いは絶対に誰かを傷つけてはいけない、という話を聞いたことがある。つまらない、わからない、伝わらないならまだしも、攻撃してはいけない、せめて無害であれと。前提や前フリなくその部分だけみると、悪い意味で「何言ってんだこいつ!」と掛け違えることがある。疎外感を感じると引く。
一般的には、万人ウケを狙うとありきたりになってつまらなくなる。角をとると誰にも中途半端にしか響かない。ツカむために、尖ったことを言わざるを得ない。それで、どんどんストライクゾーンを狭めていく。狭い世界に入り込んで似たような(たいてい低レベルに落とし込まれた)価値観の人たちに限れば、感情をコントロールしやすい。だけど、身内ネタは身内だからおもしろいのであって、身内じゃないと笑えない。もっと言うと身内でもお約束の繰り返しは飽きてしまう。
落語は設定にあるあるネタが多くて、そんなバカなやついるよなみたいにうまく共通項をつくってくれる。ロバート秋山のクリエーターズファイルもハイレベルに面白い。何が面白いかは人それぞれだけど、持ってる知識量が違うときにわかるやつだけわかればいいとするのか、わかるやつを増やそうとするのか、前知識がなくても笑えるネタをつくるのか。