なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

矛盾をうけいれる

人間は複雑な動きをきちんと記憶するときには、インプットとアウトプットを同時に記憶しているらしい。人間は、AとNOT Aを同時に受け入れることができる。理性で考えて問題を整理すると、こちらをたてればあちらが立たず、あちらをたてればこちらがたたずのような、いわゆるコンフリクトがおきるが、人間が絡んでいる問題において、論理という方法論ほど無力なものはない。その枠をはみだせないと永遠に解決できない。人間は、他者と共有するために言葉というツールを使って表現し、秩序だったルールを仮定し、そのルールに基づいて意思疎通をしているけど、それは極めて表層的なつながりであり、ほんとうの意味で相手の思いは理解できていないように思う。私の尊敬する独立数学者の森田さんは「わかるということはつくるということだ」と言っている。そのとおりだと思う。そういえば、高校のときの担任の安村先生は「人の気持ちはわかり得ない」と言っていた。たしか、他人は自分ではないからいくらわかったつもりになっても知ることができない、という主旨だったと記憶している。いかにも慶応の数学科出身ぽい発言なのだけど、いまでも覚えているくらいだから高校生のぼくにとってかなり衝撃的な言葉だった。
生きていると「あってるし正しいけどなんか違うんだよなぁ」ということがたまにある。ちょっとした違和感は敏感に感じ取ったほうがよい。だいいち意識して感じ取れていることのほうが少ないのだから、違和感があるということはそれ以上にみえないネガティブなことがたくさんあるかもしれない。正しいからという理由で人間は行動に結びつかないし、それで行動したとしてもやっぱり軽薄にみえてしまう。営業がMBAの文脈で語られないのは興味深い。フィリップ・デフヴス・ブロートンは「ビジネススクールで終身教授になろうと思えば、特定の学術雑誌に論文を発表しなければならないが、そうした雑誌はみな財務やマーケティングや戦略やオペレーションに目が向いていて、営業についての論文に割く誌面がないか、このテーマを真剣に取り上げようとはしない。そんな本質的とはまったく関わりのない理由で、営業は経営学のなかでつまはじきにされている」と言っていた。売りをたてるのがもっとも大事なはずなのに。人が動くのに理由はない。理由がないから再現性がない。再現性がないから学術として成立しにくい。たいてい人間なんてそんなふかく考えていないし(関係ないけど、そうだ京都行こう、というJRのコピーは秀逸だ)、考えたところで正しさに確信が持てない。あたかもそれっぽい理由付けをすることを仕事にしているコンサルタントが流行った時期もある。若手でもロジックに強ければバリュー出せます的な。そんなことは誰だって考えているしそうじゃないから困ってんだよこっちは、という経営者は多いはず。答えが欲しいわけではない。もっと柔らかいものを求めている。腹を据えるための理由付けが欲しくて、動かせればなんだってよい。下世話な話、女をあてがって揺さぶるんだって構わない。山に登るとき、ルートAだろうが、ルートBだろうがルートCだろうが、すべて共存できて、どのルートを選ぶかなんてことに必然性はないし、すべてが正しい。すべてが正しいし、ルートに優劣なんてなく、選ぶことの意味はあまりない。