なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

好きだと気づいたときにそれをどう伝えるか

何をどうやって伝えるか。伝え方が9割という話もあり、伝え方によっては結果が変わる。伝え方が重要なのはわかる。わかるけれども「何を」のほうがもっと重要と思う。プレゼンテーションはしょせん、テクニックに過ぎない。テクニックがうまければ、結果が変わるというのはあまり好きではない。女の子を口説くときも、慣れていれば口説けるし、相手を気持ちよくさせれば落ちる、場合もあるけどそうなってしまうと、本心はどうあれ、ゲームになってしまい、なんか違うなぁと思う。へたくそでも強い思いがあって、ちゃんと隠しきれず伝わってしまうほうが素敵だと思う。もちろんスマートなほうがかっこいいし、テクニックはあるほうがいいのだけど。なので好きだという思いが芽生えたらあれこれ考えず、伝えるべきだと思う。ロンブーの淳さんが自分の気持ちが高まったときにプロポーズすると決めていて、寝起きのパジャマ姿だったという記事があった。真相はさておき、めちゃくちゃテクニックがある彼だからこそ、テクニックの無力さを知っていてピュアな状態でこそ人が動くということを感じていたのではなかろうか。相手の受け取りかたはそれぞれだけど、うわべはどうでもいいとさえ思うし、ビジネスでよく使う"おとしどころ"的なことを考え、交渉に臨み、相手の出方をみながら、進めるというやり方は、結論はもう決まっているのになぁ〜と思いながら話がこじれて仕事を増やすのは嫌なのでやるけれど、もっとなんかやり方があるんじゃないのと思えてならない。少なくともプライベートでは駆け引きみたいなのは、無駄なコミュニケーションコストであり、本音で付き合いたい。
まず伝えたいメッセージがあり、そのうえでコンテンツやプレゼンテーションを考える。ごくまれにこのプレゼンテーションをしたいから伝えたいことを考えるみたいなこともあるが、基本はメッセージありき。資料つくんなきゃ…

恋愛はローカルニッチな市場である

何か2つのものをつなぐとき、株式市場のように多くと多くが同じ条件で選び選ばれる世界と、リアルな出会いのように出会いの数が限られているのに、たくさんのなかから選べるかのごとく錯覚している世界がある。後者の場合、事象の数は積み上げられるので、表層的には最適解が選択されているようにみえるが、実際には部分最適のかたまりがあつまっているに過ぎない。プレーヤーを多く集められたとしてもプレーヤー自身の物理的制約で限られた比較しかできない。例えば、恋愛は出会った先でしかできない。そして、出会いの数はたかだか知れている。多くの人を網羅的に選ぶなんてことはなく限られた出会いのなかで選んでいる。であるならば、全体を見渡す必要はあるのか。限定的な世界での最適解に平均値はなんの参考にもならない。自分が良いと思えばそれでよい。高いとか安いとかは比較対象があってはじめて感じることで、比較する必要がないのに比較してしまうのは完全に被害妄想。
市場と呼ばれる世界の多くは幻想で、現実を正しく表現していないように思う。現実世界は、物理的制約があり、市場という民主主義的な考え方がそもそもフィットしない。テクノロジーな進歩したことで、時間や場所など制約を外し、出会うはずのない人どうしが出会うことができるようになったが、人間の基本的性質からして人間がたくさんのなかから選んでいるのではなく、優れたアルゴリズムによって機械が選んだ最適解を使っているに過ぎない。人間だけの世界に閉じて考えれば、あたりまえだが、そんなに能力は向上していないので、限られたなかから選んでいる。人は欲張って多くのなかから"自分で"選びたいと思っているけど、本質的にはそれほど選んではいない。TAKAHIROと武井咲が結婚したそうだ。おめでとう。

「言いたいだけ」は超重要

生きるうえで必ずしもやる必要のないこと(他人からみるとくだらないなぁと思われること)を本気でやったりできたりするのは究極の贅沢だなぁと。くだらないけど自分のなかではキテるってことにハマれることはめちゃくちゃレベルが高い。人間がやる仕事が減り、人間の仕事は遊びに近づくという話は、「やらなければならない」から「やらなくてもいいけどやりたいからやる」への変化にも思える。

1.やらなければならない×やりたくない
いわゆる仕事といったときにまずイメージされるのはここ。自分が置かれている立ち位置、それに紐付いて課される責任など、拘束力があり、基本的には外発的動機から動く。それに対してなんとか喜びを見出そうとしても、そもそもやりたくないことは結構厳しい。

2.やらなければならない×やりたい
やらなければならないことは仕事だけではないが、象徴的なので仕事で考えると、いわゆる天職という職を得たひとたちは仕事をここにシフトできている。やりたいというドライブがあればなければという義務もないので強制的にやらされている人に比べると伸びが早い。

3.やらなくてもよい×やりたい
4つのなかでもっともレベルが高い。遊びや余暇、趣味がここに含まれる。純粋にやりたいからやっているので、他人からどう思われようがあまり関係ないが、でもこの素晴らしさをわかってほしいと他人に言うことがあって、超くだらないことをマジメに語ることがある。ほんとうはわかってほしいと言うより、言いたいだけ。自分が主導しているので絶対的な価値ではかることができ、満足感が強い。やりたいのでやることの範囲は自然と広がり、いい循環にはいると成長が加速する。

4.やらなくてもよい×やりたくない
自分ひとりの限られた資源を考えると、割合的にはここが一番多い。世の中にはまだまだ知らないことが多いし、すべてを知ることはできないけど、この部分の探索こそが人生の幅を広げ、豊かにする。知らないだけでやりたくなきと思っていることもある。ここからやりたいと思えることを探し出せれば充実した人生につながる。

 

補足)「言いたいだけ」に関して、千葉先生がこんなことをおっしゃっていた。「独語的になる、それは、話しているというより、何か大事なものを手のひらで揺すり続けるような状態になることです。こだわりをもてあそんで、自分の享楽を循環させている。人にメッセージを伝えるためではない。ただそれだけで大事な何か、意味以前の何かがある。」

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』より

 

まじめにこつこつ

結果を出さなければ意味がないというのは正論で疑う余地はないのだけど、だからと言って結果を出せば何をしてもいいという訳でもなく、結果を出さなかったから得るものは何もないという訳でもない。たぶん人の一生懸命さや真面目さみたいな雰囲気は伝わって、対人間の仕事をしている限り、そういうあたりまえのことをあたりまえにするという、言い古されたようなことを愚直に行なうということが意外と数字でシビアに評価されるような世界にこそ重要なんじゃないかとふと思った。結果が全てで、評価対象は最後だけだからそれ以外は無効、っていうのはやっぱり少々粗っぽい考え方かもしれない。やるべきことのレベルは高くキープしたまま、誠実な態度でふるまう。やって当たり前ということがハイレベルに共有されていれば、どれだけ真摯に向き合うか、という闘いになる。そう考えると態度や姿勢というファジーな指標にも意味がある。

あいまいなままに受け容れる(続き)

「禅」の冒頭、いきなりこうある。
「禅は、仏教の精神もしくは真髄を相伝するという仏教の一派であってその真髄とは、仏陀が成就した〈悟り〉を体験することにある。したがって禅は、仏陀がその永遠の遊行の間に説いた教示、もしくは説法にただ盲従することを拒む。言葉や文字は、仏教者の生活がそこから始まり、そこに終る目標を単に指し示すに過ぎないとする。」
方法は問わない。厳しい戒律が課される宗教とは対極にある。だからこそ、師の教えを聞いてもその意味がわからないうちは、わからない。永遠にわからないかもしれない。やりとりの会話を聞いても師匠は弟子の質問にまったく答えていなかったりするけど、それが意味のあるやりとりだという。あくまで本人が内面に深く入り込むことにより到達する。
禅の前提となる問題意識として「問いは対象を客観視して離れないと出てこないが、答えは離れた状態では出てこない。もう一度問いがうまれる前に戻らないとわからないが、戻ると問うことも答えることもできない。問いは知性的だが、答えは体験的である。」という問題がある。仏陀自身、この実在と真理の問題を解決すべく、過去の賢人に教えを乞うたが満足せず、肉体の欲求をおさえて心を浄化させようとしたがやっぱりだめで、自我がなくなったときに悟ったという。この消滅が「無為」であり「空」である。ちなみにこの状態を象徴的に表した書が「円相」で、チームラボさんが作品を作っていたり、村上隆さんが円相の個展を開かれていたりする。解釈はみるものにゆだねられる。
禅の別な属性として「禅は論理的分析や知的処理の支配は受けない。」「常に具体的な事実を扱い、一般論には流れない。」というものもある。現実の矛盾を容認する。Aとnot Aを同時に受け容れるという世界観。論理で考えてしまうと混乱の極みに陥る。ゆらゆらと揺れ動く人間の心理を真理として捕まえようとした過去の賢人達の思想。深過ぎてよくわからないのが正直なところだが、具体と現実にしか答えはない、というあたり、なんとなく共感できるところもある。

参考)
鈴木大拙「禅」

teamLab「円相」
https://www.teamlab.art/jp/w/enso/
村上隆 個展「円相」
http://gallery-kaikaikiki.com/2015/10/enso/

積極的購買

欲しいから買うという積極的購買欲と必要だから買うという消極的購買欲がある。後者はなくちゃいけないから買うけどできれば買いたくない。例えば、iPhoneのケーブルやビニール傘。欲しいときにないことが多くて毎回買う羽目になり。そんでもってちょっと高いから余計腹がたつ。
ずるいという言葉で形容されるばあいは欲しいが必要を超えていて、そんなんぜったいそうなるやん、という感じ。逆に必要性だけでつなぎとめて、ロックインするのは搾取。同じお金を払うのであれば「ずるいな〜」と言ってお金を使いたい。

ラストワンマイルの仕事

プロセスはほぼ最適化されるが、さいご行動するまでの意思決定は人の仕事として残りそうだねと。データの評価・分析まではAIが出してくるが、それを基にした意思決定と行動は人間がやらざるを得ない。判断→決定→行動までの距離は人によって違うものの、コンピュータが出してきたよくわからない結論をすっとそのまま受け容れてゴーサインを出すのに多少抵抗はある。正しいかもしれないけど、人間のキャパを超えてくる答えには違和感は残る。わかるんだけど違うんだよなぁと。そうしたときに最後のボタンを押せるか。人間の本能的な心理的抵抗を超えられるか。