なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

共通認識

人が不快に感じるシーンはある程度の共通性があって節度のある人はそれを守って関係をつくっていくのだけど、不快なことの認識が共有されていないと「えっ」となる。文化的な違いは許容すべきだけど、文化や社会以前に、人として誰かを差別的に扱ったり、傷つけるのはよくないということは、ある程度の教養をもったひとたちのコミュニティではベースとしてある。言っちゃいけないことは暗黙のルールとしてある。どれくらい相手の立場になって考えて、相手のことを慮れるかというのはその人の深みで、自己の利益や保身だけを目的としたような人は周りから離れていく。常識などないと思う一方で、常識感の似たようなひとでないときついとも思う。ひとつの船にみんなでのるなら、なおさら良いこと良くないことが共有できていないと厳しい。そのうえで、議論をたたかわせることはまったく問題ない。

お金の位置付け

確かに貰うもんは貰ったほうがよいけどお金にそこまで強いこだわりはない。だけどどうしてもこれくらい貰わないとやってられんみたいなことを考えるときもあって、そんな思考のときはその仕事にストレスが過剰にかかっている。お金でキャンセルしているような状態。なのでお金へのこだわりは自分にとってネガティヴなことがどれくらいあるのかというバロメータにもなっている。だいたいそのものに没頭できるときはお金のことはあまり考えていない。必要だから稼ぐのであって単なる手段に過ぎない。

しかし不思議なものでぜんぜん売る気のなかったビットコインもここまであがるとなぜか手放したくなる。手段とかいいながらやっぱりお金はたくさんほしいと思っているのかも。

解決と解消(おまけ)

女の子に関して、会話したいとかデートしたいとかエッチしたいとか個別サービスはコンビニエンス的に存在している。でもそのとき刹那的満足感が得られたとしてもまたすぐに穴ができてきりがない。時間軸を共有して連続的に接しないと自分の気持ちが解消されない。もやもやした気持ちのパッチではなくバージョンアップ。解決ではなくて解消。それが付き合うというソリューションか?気持ちの問題は点で捉えると永遠に解けない。

補足)仕事と私のどっちが大事なの?というよくある二項対立は、ハグというソリューションが有効かと思っているが、これは解消によって解決しているともいえる。

解決と解消

アインシュタインは「重要な問題は、それがつくられたときと同じ水準の知性では解くことができない」といっている。

The problems that exist in the world today cannot be solved by the level of thinking that created them.

問題を解く方法は解決と解消の2つがあり。その枠組みのなかで解くか、それを問題としないような枠組みをつくるか。アインシュタインは後者の発想だろう。

例えば、プラスの世界しか知らなかったプラトンの時代、2-4=0が当たり前だった。数を量としてとらえていたために、マイナス個という概念は存在せず、2個以上引けば0でしょと。でもマイナスがないと、2-4+4=4となり…2個から同じ数4個を引いて足しただけなのに、2個より大きな4個になってしまう(足し算と引き算は逆の関係であってほしいという思いに反する)。これはおかしいということでやむなくマイナスという概念を創造し「解消」した。いまでは当たり前のように扱っているマイナスも当時はラディカルな発想だったという。

あるものとして誰かが考えたことを与えられると、どうしても帰納的・連続的に考えがちだけど恣意的に与えられた条件を外してみると違った世界が広がる。技術的に条件を外すだけではなく、どうにもならない問いを立てたうえで外す。枠組みの超えかたも重要で雰囲気で超えるのではなく、ほんとうに必要に迫られ、現状ではどうしても納得できないがゆえに超えるべきである。本質的な問題を重要な問題として捉えること。抽象的だけど、何をするにしても大事なことと思う。

大人な対応

相手が怒っているのであれば自分が悪いと思っていなくても謝るべきか。非を認めることになるので簡単に謝らないという考え方もできるが、まずは怒らせたという事実があるのだから、謝ったうえで解決に向けて話をする、という考え方もある。たいてい怒りの原因は、事実誤認か価値観の違いによるものなので会話すればなんとなくはわかるけど、そもそも感情をぶつけてくるやつは少しめんどくさい。なので少なくとも相手が怒っているのであれば自分が悪いと思っていなくても、事態の収束に向けて、謝るという術を身につけてしまった。…という話を二十代のころからお付き合いしている美容師の方としていたら「最近、落ち着きましたね」と言われ。昔のぼくは簡単には謝らなかったでしょうと。自分の気持ちとは裏腹に相手に合わせた行動をするといういわゆる大人な対応は、ある意味、自分にウソをついている。とはいえ、関わり続けなければならない相手とバトルして付き合うのは疲れるし、労力を費やすのももったいない気がしているのでどうしても冷めた感じになる。付き合う相手を自分で選ぶかという話にもつながるが、あまりに負荷がかかり過ぎる場合には切るという判断もでてくる。

言ってほしい人に言ってもらえるということ

仕事ではいろいろな人と付き合わなくてはいけなくて、理不尽に攻撃的な人をいかにおさめるかみたいなところも仕事のひとつなので、精神的に削られることも多く、そうしたクレーム処理のようなことばかりが重なると、本当に自分のことを思ってくれる人からの言葉が暖かい。ある先生からふと「がんばってくださいね」と言われ捨てる神あれば拾う神もいるのだなと素直に感じた。言葉は誰に言われるかというのも大きくて、尊敬しているひと、自分が好きな人に言ってもらえた言葉は重い。師匠にかけられた言葉を忘れないように、関係性のなかから紡がれる言葉は固有のものである。

あるのにない

世界的に有名なベンチャー企業も本社にいくとひっそりとたたずんでいてその存在に気がつかないことがある。先行している知識が多くて勝手にイメージを膨らませているが、物理的にはなんら、なんら特徴がない。意気揚々と上京して東京にきたものの東京は何もないと感じることに近い。あるのにない。あるはずのものがない。超有名な経営者も普通にいると気がつかないことがある。人がつくりだしたものは、目の前にあるからといって必ず圧倒されるわけではない。距離の近さと存在感は比例しない。いま日常でみえている景色も自分が見逃しているだけでものすごいチャンスが埋まっているかもしれない。すごいものはひっそりしている。