なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

付加価値はどこにあるか

極端に言えば、言葉を伝えて相手を動かす仕事はそれほど大変ではない。営業だろうが、弁護士だろうが、要職のスピーチだろうが、段取りをふんで同じようになぞることができればその人である必要がない。対面しない場合はとくに。テキストや音声なんて簡単に真似できる。同じことをすれば同じ結果になる。その意味で、コピーした言葉は自分のものではないし、コピーすれば結果を出せる。
その対極にある仕事が、160kmのボールを投げる、10秒で走る、繊細な指先で操る、歌って踊るなど、身体を使って表現する仕事。トレーニングしても同じようにはコピーできない。その人特有。
頭を使ってする仕事は、アウトプットだけ切り取れば表現がチープなのでどんなに高度なプロセスをへてだした結果でも答えだけはコピーできる。AIで囲碁をするようなもので、もし手が決まれば、碁を打つという行為そのものは誰でもできる。プロセスを無視してその手を打った人が評価されるのであれば簡単に評価を横取りできてしまう。情報というものは見誤ることがあるので自分から切り離して考えたほうがよく。ほとんどは巨人のうえに乗っているだけでまったく自分の成果ではない。フロントで動いているひとしか見えないけど最後の一手を打っているだけのことも多く、結局はチームで仕事をしていて、まわりにつくられた自分がいるだけ。まわりに支えられての自分。ほんとそう。自分である必要はないということに自覚的でいたい。

動かずに変わる方法

自分が動かなくても考え方が変えるだけでじつはできていたということがある。自分を動かして乗り越えようとするより考え方を拡張するほうが簡単かもしれない。好きとか嫌いとかそういう曖昧なものは、好きなタイプみたいなものを決めてしまって安易に嫌いと決めつけるのではなく、好きという概念が拡張されれば嫌いだと思っていたことが実は好きだったと。嫌いなものをむりやり好きになるのはハードルを越える感じがして難しいけど、立ち位置はそのままで好きの範囲を広げられれば、気がつけば好きだったということが起こり得る。そう考えると好きになるのはそれほど難しいことではない。好きなタイプなんてどんな人に会うかで簡単に変えられる。逆に自分の知っている好きなんていう感覚はとてもはかない。

体系立てられ過ぎていることの弊害

Nが大きければ正規分布に近づく。これに気がついたやつまじナイス。いい仕事してるわ。おかげで安心して誤差の程度がわかる。などと思っていたら、ガウスだった。どんなばらつきでも突き詰めれば正規分布曲線のパターンになっているらしい。というか、ばらつきの分布がこんなかたちだって考えた曲線を正規分布って言っているだけかもしれない。なまじ、確率分布などという中途半端な知識だけ知っているのでそれがどういう意味かも知らず扱っていたけど、部分から全体を推測しようとしたときにその誤差の程度がどれくらいあるのか、誤差はどうやって評価すればよいのかなど考えだすと、誤差がない最終的なかたちを知りたくなって、でもリアルに無限に試行するのは無理だから、理論的にこのかたちになるんですよと示してくれているのは本当にありがたい。全体像がわかっているからこそ、信頼区間が95%でどれくらいなどということができる。与えられたものを理解しようとするのはたいへんだけど(それでも単なる計算はできる)先人たちの思考プロセスをたどれると自然に理解することができる。

経験値と理論値

先週、国立感染症研究所のレポートで推計約171万人(95%信頼区間:153~189万人)との報告が出された。インフル感染者数が170万人、人口1億2000万人として感染率1.4%。周りの100人に聞いても感染している人がいないからこの確率は間違ってるというのは正しくない。100件に1件と300件に3件はどちらも1%だけど、現実的には1%を当てるために100回じゃ足りない。では何回試行すればそれなりに正しい推定ができるか。この疑問を考えていたら、大数の法則というシンプルなものに行き着いた。「経験的確率と理論的確率が一致する」。で、実際何人に聞けばわかるかというのは感染率1%の場合、誤差10%で38,032人、誤差20%で9,508人。誤差100%で380人。つまり100人に聞いたところでぜんぜん足りない。むしろ誤差でしかない。40,000人くらいに聞いてようやく1%という数値に9割の精度で落ち着く。たしかに最初の100人で1人いるかもしれないけど、そんなに一様には分布していないからたまたま。それなりに精度をあげようとすると、Nをそれなりに上げる必要がある。母数を限定すればそれが答えだけど、サンプルからそれよりも大きな集団の傾向を推定するにはある程度数を集める必要がある。

創造的な

中田ヤスタカさんが作曲の過程について「頭のなかに(音が最初から)あるわけではない。自分で想像できる音はおもしろくない」「(自分がよいと思っているものをつくり)たまたま売れたらおもしろいことになりそうな音を作っている」と語っていた。
神経科学では、顧客は自分の欲求は自分ではわからない、という考え方がある。マーケティングにも応用され、現代ではテクノロジーによって提供者も受容者も知らなかった価値を共創していると。
とある冒険家が知らない草を食べるときちょっと食べてみると言っていた。それで30分くらい何もなければGOだと。なかなかリスキーな話かと思ったがそいつにとって大丈夫なら大丈夫なのである。
どれも共通しているような共通していないような。創造するという過程においては「いま答えは誰も知らない」「試しにやってみる」「自分とほかを掛け合わせる」「潜在的な欲求は浮かびあがる」「身体で感じる」「つくられたときに答えになる」など。

肩書きに対する執着

肩書きは単なる専門職の名前だから、その組織そのものや、組織における役割や責任範囲などを理解していないとぴんとこない。ある人がCEOになったとか言ったところで、その組織の大きさや置かれている状況、CEOとしてやるべきことなどがわからないとなんともコメントしにくい。一般論はあまり意味をなさない。
肩書きという一言で、CEOだから○○だよねというように前提を説明せずに押しつけるのはコミュニケーション上は強引と言わざるを得ず、肩書きの理解がなければまったくぴんとこないわけだから、せめて○○という組織はいまこういう状況で、そのCEOは○○しなくちゃいけないから、○○だよねくらいは補足してほしいい。自身の認識を当たり前のように考えている人は井の中の蛙的会話の域を脱することができずちゃんと説明すればわかってくれるかもしれないのに冷めた感じで距離を置かれてしまうことがある。それから、肩書きに対して執着するひとがいるが、その肩書きだからこそ「何ができるか」というほうに執着するのが正しくて、肩書きに付随する名誉や権利、報酬などに着目するのはなんだかなぁと思う。

みたものやきいたことは残る

意識しようがしてまいが見たものや聞いたこと、話したことは残る。つまり、仕事だと切り替えて切るつもりでも人間は連続的な生き物なので何かしらの影響はする。誰と何を話して、どんなことを考えたのか、何を見てどんなことを感じたのか。せっかくなら良質なコンテンツをあびるべき。油断しているとくだらない粗悪なコンテンツに流される。食べたもので身体はつくられるというのも同じロジックなのだけどらなぜか食に関してはまだ肚おちしていない。