なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

決めるための組織

ステークホルダーのマネージメントをするときに、次の3つのことは前提として持っておくべきかもしれない。

1)重要なことを重要だと理解していないとあぶない。不意に刺されることがある。リスクをコントロールしておけば対処できるけど、認識にないと突然言われてあせる。
2)重視していることは人それぞれ。個人の置かれている環境、状態、関係性などでぜんぜん違ってくる。個人の優先度はばらばらなので、しょっちゅう組織と個人、個人と個人はコンフリクトする。それぞれの立場にたてば、正当な主張であることは理解できる。税務署は税金を正しくとろうとするし、会社はできるだけ抑えようとする。仕事より家族の時間を優先させる人もいればそうでない人もいる。個人が大事にしていることを会社は侵害できないし、そこをわかろうとしないと自発的な行動は喚起できない。
3)重視なことは組織で決める。ひとつに決めるために組織が存在している。決めることは組織の持つべき機能のひとつ。実務的には、反対を振り切って決めなければならないことのが多いので、プロセスを決めておいたり、ボードメンバーで話しあったり、とにかくきめなくちゃいけないときにデッドロックしないよう権限に重みをつけておき、組織を動かす。どちらか決めるときリスクをとっている人間が強い意思決定権を持つのは自然。全員がハッピーになるような選択は発展途上で答えがない状態のときには定まらない。どちらも正しいときにどちらかのポジションをとることは大事。そういう過程を繰り返して成長してスタンダードができていく。

 

アイデアや仕組みをつくった人への貢献と仁義

いま現場を動かしている人は誰が見ても貢献しているし、わかりやすい成果感がでる。しかしながら当然それを考えてつくった人はいるわけで、アイデアを出して立ち上げ、仕組みにするまで仕立てた人もいる。いまはあまり手を動かしていないけれども、その人がいなければその仕組みはなかったわけで、現場から少し離れていたとしてもリスペクトすべき。あたりまえのようにかたちある状態からはいると、その実感はわきにくく、たしかに現場は大変だし苦労の連続だとは思うけど、そのあたりまえは、もともとあたりまえじゃなかったんだよということも忘れてはいけない。汗をかいた人のが偉いという心情的なバイアスもかかるが、アイデアの価値はやはりある程度、尊重しないといけないと思う。

資本政策

皮肉なことにバリュエーションが高いほど、経営陣による増資は難しくなる。自社の株はキャッシュがないという意味でまず買えない。なので創業時の生株はちゃんとリスクをとった人間が握っておくべきで、上場を強く意識しない(VCなどを入れてない)会社だとしても考えておいたほうがよいという。例えば、創業時に1株1万円で100株発行して資本金100万円。次のラウンドでバリューアップして1億円と評価されれば、1株100万円。1000万円出すよという投資家は10株しか買えないので、1100万に増資しても、創業者と投資家の株主比率は10対1。ここで、新株の発行価額を簿価にするか時価にするか問題がでてくる。会社が成長しているのであれば普通は時価らしい。でないと実質的に投資家に経営権を取られる。さっきの例で株価を1万円のままとすると、株主比率が1対10と逆転してしまう。創業者はリスクをとって会社の価値を高めたのにいきなり現れた知らない1000万円おじさんに会社をもっていかれ、そりゃないよねと。まあここまでは教科書的な話だけど、実際、非上場会社の株価に法的根拠はなく、計算式はいくつかあるものの、どうしたいか、それでいいのかという思いによってどうとでもなる。買わせないようにめちゃくちゃ高くバリュエーションしてもらうこともできるし、既存株主を納得させて簿価にすることだってできる(時価総額をあまりに低くおさえることによるメリットはあまり見出せないけど)。確かに税率の問題やらいろいろあるけど、そういう法的拘束力は株価が決まったあとに関係してくるわけで。株主総会でYESと可決されればそれで終わり。当然といえば当然なのだが、弁護士に聞いても会計士に聞いても税理士に聞いても社労士に聞いてもそこに答えはない。そして感覚的にこの手の話は実務とつながっているようでつながっていない。株価がどうであれ実体経済は動く。お金というキーワードで実態と接続している一方で、なんの価値もない独立したシミュレーションゲームのようにも感じることもある。だからといって時価総額に意味がないのかというと無意味でもない。考えがうまくまとまらない。

概念は奏でることができる

音楽は身体できくものか。音によってそれぞれ身体の違うところがあちこちが震えた。花火を近くでみるとどんという音はずしりと胸に響いたりするのと同じ。ビートは身体の芯で感じられるし、軽い音は末梢で拾われる。マルチチャンネルの音響も素晴らしくいろんなとこから音が飛んできて、まさに音のシャワーを浴びてる感じ。切り貼りされたコンピュータのノイジーな音なのに、不快感が全くない。むしろ心地よい。大音量なのに頭が痛くならないしびくっともしない。緻密に組み立てられた音だということを素人ながらに感じた。部分的に即興のところもあったようだけど、どこまでが即興でどこまでがプログラムどおりなのかさえわからなかった。渋谷さんとジェレミーさんはほとんど動かず指先で操作していたのも印象的。クラシックなリズムはわかりやすく音にのることができるけどコンテンポラリーは表現する対象が複雑過ぎるので身体は落ち着く方向になるのだろうか?たった1時間足らずなのに「身体・音楽・映像の3つの媒体を幾重にも重ね、共鳴しあう」とあるとおり、情報量がかなり多い。自分はその場にいたというだけ。そして何かがそこで起きていた。どこまで消化できたかよくわからない。静かなる興奮とその余韻がまだ続いている。

* Parade for the end of the World 予告編
https://t.co/Ype3PwohBm

心を掴む

尊敬する社長がいる。飲み会の挨拶でその社長が「すべてお金です…」と言い、少し間があり笑いがおきた。その場にいる人たちは、同じように苦労していてその意味がよくわかっている。そんなことはわかっている、でも直接的に真正面からは言いにくい。言われなくてもわかっている。でもそうだよなと。あの社長でさえ、あの社長だからこそ、ストレートに言って響くのかもしれないけど、琴線に触れるというのはこういうことかと。誰もがわかっていながらできていないこと。こう思っているだろうなということを察する力。

30分前集合

昔、部活で一年生は30分前集合という決まりがあった。集合時間の30分前に行くというもの。先輩にはそのルールが適用されない。だいたい一年生は全員30分前に来ていて、先輩が集合時間に遅れ、その人を待って全員が遅れるという。一年生は思う。なんのために早く来たんやと。でもそんな一年生も上級生になると伝統を守り、気が緩み、同じことを繰り返す。そんな理不尽なルール無くしてしまえばいいのに。まず先輩と後輩で時間を分ける必要はない。それから、集合時間に遅れなければ1分前でも構わない。そんなふうに思っていた。ただ、大人になって30分前に現地入りすることがある。VIPを招聘したとき、重要なイベント、お客様のお客様をお待ちするときなど、念のため。何かあるかもしれない、もし遅れたとしても30分あれば本来の集合時間には間に合う、精神的な安心感が得られる、会場で何か準備できるかもしれないなどの理由から。自発的にそうすべきだと思い30分前に行動。実際には、直前に来ても問題ないことがほとんど。しかしながら不安で早めに動いている。部活動で受け継がれていたあの30分前集合は、もしかしたらこれかもしれない。とにかく30分前に集合しろということだけを捉えれば理不尽で無意味と思うけど、なぜこのルールがあるのか、なぜそうすべきなのか、こうした背景、意味を考えればちゃんとそこには理由がある。

結局自分の知識レベルに近い話しかできない

レベルの高い人は相手の知識レベルに合わせて話すことができるので合わせられた側は高度な話をしているつもりでも自分では気がつくことができない。ハイレベルな会話をしたいのであれば、自分のレベルをあげるしか方法はない。レベルの高い人と話をすると自分もハイレベルな話ができていると勘違いしがち。気をつけよう。レベルの高さはどこから感じるか。洗練された言葉。考え抜かれた単語。一言一言にちゃんと意味がのっていて同じことは言わない。会話のスピードは発せられる言葉の情報量と依存関係はない。遅いほうがごまかしがきかないのでゆっくりちゃんとした言葉を話すほうがよりその重さが際立つ。