なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

テンションコントロール

安定したパフォーマンスをだすために重要なことは体力じゃなくて気力のような気がしてきた。体力があってもテンションがキープできないとだらだらと時間をかけるだけでアウトプットが出せない。横になったり睡眠をとれば体力は回復するけど、気力は短時間でリカバリーすることが難しい。これといった方法があまり思い浮かばず。これまでテンションをコントロールするための方法を本気で考えたことがなく、音楽を聴いたりすれば、気分を変えることはできるけど、集中力が切れたときに立て直す方法をかんがえるべきかもしれない。朝すっきりと目覚めないのは何か嫌なことがあるからなのか。もしかするとテンションを自分の思うようにコントロールすることができればもっと効率があがるはず。常にハイでいられることはない。どうしたらスイッチを入れられるか、やらなけらばならないときに集中力を使えると強い。朝の集中力と夜の集中力は確実に差がある。1日の集中力は限られているという感覚があるが集中力を細切れにしたり、集中力を拡張したりできれば、もっと快適になると思う。

常識の押し付け

常識で…普通は…などという言葉を使う人はあまり信用できない。普通は辞職するやら、そんなこと常識でわかるだろう、という発言は本当にやめてほしい。常識などない。自分の世界の基準を押し付けてくるのは横柄だと思う。せめて、法律でこう書かれている、もしくは、このようなデータがある、と客観的な根拠を示すべき。大臣がいうように、原因解明と再発防止は誰かがやらないといけないわけで、いまは辞める辞めないより前に進めることが求められている。誰がというのはもう明らかで腹を切るやつを探しているだけにもみえるから、犯人探しはそれはそれとして、いまポストについている人たちが職務を全うし、政治を少しでも健全な方向にもっていくべき。独立した機関で信頼性を担保するのはよい仕組みだと思うんだけど、ワークしないこともあるのかと。

一期一会

コミュニケーションにおいて、非言語で伝わる情報は8割などと言われることがある。言葉で伝えているつもりでもそれ以外の情報のほうが多く伝わっているという。であるならば、極端な話、言葉はなくたってよい。たしかに言葉にしなくても表情で伝えることはできる。例えば、何か言いたそうな表情はわかるし伝わる。アイコンタクトして意思疎通をはかることもできる。テキストだけのドライなコミュニケーションでノンバーバル情報の伝達は難しい。文脈を読み取るくらいしかできないので、超くだらないことを一緒に楽しんだり、笑ってはいけない状況で笑いをこらえたりするのは日常的にあるけど、その瞬間は瞬間でしかないがゆえにすごく貴重。映画や演劇における俳優さんの演技は唯一無二で、同じシチュエーションをつくろうとしても全く同じにすることはできない。それぞれの生活が流れていくなかで、たまたま接点をもち、いろいろな状況が複合的に重なり合ってぴたっとハマる瞬間はある。

情報源の話

一次情報にあたれというのは原理原則だが、その情報ソースが変わってきている。情報が深いなぁとか、着眼点がキレてるなぁと感じる人は学術論文や企業レポートを自分で読んでいる。最近だとネットで論文は読めるから、興味のある分野を掘っている。メジャーな学会のアブストラクトだけでもだいたいのことはわかる。またファームのレポートも無料で読めるし、かなり幅広なデータを収集してまとめられたものもある。昔はレポーティングでお金をとっていたのかもしれないけどいまはそんな時代ではない。企業のレポートは無料のレポーティング以上のインサイトを有料では提供するという自負もあるのだろう。論文もレポートもともにエビデンスベースド。こうした情報に日常的に触れている人たちは、会話のなかで、そういったスタディがあるとか、こんなデータがあるとかいう根拠を示し、発言をしている。データさえ集めてもらえればそこから仮説を立てることはできるし、仮説ありきでデータを取りにいくという天下り的な発想はあまりしていない。

思考停止

という言葉はよく使われる。外から与えられた自分ではコントロールできない問題のようにとらえ、主体的に解決に向けて動こうとしていない状態。ぼく自身、ほとんどの未解決問題は思考停止している。深く考えていない。なぜできないのか。どうすれば良いか。うまくいかないやり方を変えようとしない。要はあまり考えていない。ちゃんと考えるとじつは表面的にネックだとしていたことはたいしたことなくて、深層部分でやりたくないだけとか面倒だからとかいう理由に行き着くことも。考える→やるべきことを決める→行動する、が基本的な流れだとすると、考えるところが止まると行動は変わらない。やるべきことを決めればあとはやるだけ。決めたあとは比較的簡単に流れる。

時間と身体の連続性

物事にほとんど因果関係はない、ということに関して、あたかもそれが理由であるかのように後追いで「適当に」繋げて考えてしまうのが人間だと思う。一人の人間が主観的に判断してしまうことと時間は連続であることが影響している。身体と時間は切り離せない。無意識のうちに多くのことを繋げてしまいあたかもそれらしい仮説をつくる。
経済学の観点で科学的に示したのがダン・アリエリー先生で、心理学と経済学を結びつけ、頭ではわかっているのに合理的な行動はとらないよねと指摘した。2008年に刊行された「予想どおりに不合理」は誰もが「そうだよね」と共感できる内容でベストセラーになり、行動経済学という言葉もメジャーになった。
自分はどこまで、恣意性を排除できているのだろうか。偏見・利害・恣意はできるだけ避けようと意識しているつもりだったけど…

『かつてアレクサンドル・ルリアという心理学者が旧ソ連ウズベク共和国とキルギス共和国の奥地で興味深いフィールドワークを行ったことがある。彼はそこで、読み書きのできない住民たちに、次のような質問を投げかけた。「極北の降雪地帯にいる熊はどれも白い。ノヴァヤゼムリャは極北の降雪地帯にある。さて、ノヴァヤゼムリャにいる熊は何色でしょう。」すると、典型的な回答はこうだった。「わからないわ。黒い熊なら見たことがあるけど、他は見たことがないから…。」』*

少なくとも「ノヴァヤゼムリャにいる熊は白い」と安直に答えるのではなく「熊の色はわからない」とこたえられる選択肢も持っておきたい。どんな前提も置かずニュートラルに思考しているようでいて、じつはぜんぜんそうじゃないかもなぁと。

* )森田真生「新潮」(3月号)「計算と仮説」

若いときほど適当なことを言ってはいけない

若いからこそ適当なことは言ってはいけない。あいまいな表現や誤っていることを言ってしまうとそれだけで信用をなくす。本来、年齢は関係ないのだけど、対面で会話しているときの若々しさは拭い去れない。ニュートラルな状態でさえ、若いと年上との交渉はやや不利な状況なのだから、少しでも隙をみせると、これだけじゃないかもと思われてしまうし、こいつ大丈夫かと不安にさせるスイッチがはいる。最初のイメージを覆すのは相当難しい。逆にファクトを積み上げてロジカルに組み立てれば、経験上そうじゃないんだけどなぁとおもわれるかもしれないけど、少なくとも言ってることは間違っていないという評価になる。どこで戦うかにもよるけど、事実を正しく理解し、適切な言葉で伝えるというのは基本的なことだけどあなどれない。