なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

正しいことが正しいとは限らない

「『4月生まれ有利』『翌3月生まれ不利』は本当か」という記事(*)でなんとかせねばならん、みたいな論調。3月31日生まれとして一言言いたい。はっきりいって不利ではない。むしろ得したとすら思っている。たしかに小さい頃はほぼ1年くらい差があるから成長率の問題で差が開く。でっかいガタイの奴にぶつかっていってふっとばされることもある。けれど、それも運命と受け入れたらいんじゃないか。工夫すればいいし、身体がちっさくてどうにもならない不条理を味わうことで強くなれる。日本人が体格差のある欧米人に劣るみたいな言い訳に聞こえる。同学年だけで勝負するのなんて小さい頃だけだし、1年間で区切ればとうぜん体格差は出る。だれかは大きくてだれかは小さい。体格だけじゃなく知能の差もあるらしいがそれは嘘だ。少なくとも自分は小学生のころ優等生だった。まわりが心配し過ぎな感も。自分の場合もどちらかといえば親のほうが心配していた。いい環境に恵まれたこともあり、それでも本人はすくすくと育ったし、足の速さで負けなかった。足の長さで負けたとしても回転率を上げれば勝てる。この議論、エビデンスに基づいているし、言われたてみれば確かにそうなんだけど、ロジカルに是正しにいくのは、なんだかなぁと思う。


*2018.8.14東洋経済
「4月生まれ有利」「翌3月生まれ不利」は本当か
親や先生は「生まれ月の格差」に注意が必要だ
https://newspicks.com/news/3243975/

エロス再考

フロイトは「原始人たちは、性愛生活や性愛行為こそ、人間にもっとも強烈な満足体験を味わわせてくれるものであることを知っていたので、幸福(快楽)というものを考えるときには、つねにこの満足体験をお手本にした。」と言っている。落合先生は、紗倉まなさんとの対談で「夫婦生活は永遠なる対話でそのいちぶにセックスがはいっているだけ。みんな気にしすぎ」というようなことを言っていた(*)。たしかに異性との関係を考えたときセックスは避けられない。コントロールできそうでできない。一戦交えるときは気持ちが盛り上がらないと気持ちよくないし気持ちは盛り上げようと思って盛り上がるものでもない。そういうもんだと普通に双方が受け入れるのがいちばん。どうしても相手のあることなのでひとりでは解決できない。

* WEEKLY OCHIAI #NewsPicks #WEEKLYOCHIAI https://newspicks.com/movie-series/6

考えはじめる前に

すごく暑い日に何かをせねばならんというときにそのクソ暑いなかむりくり頭を働かせようとするのは間違っている。まずやるべきことは最高の環境にすること。考えるのはそのあと。どうしたら涼しい場所にいけるか。これに全力を尽くすべきで、そのときには無駄に考えるべきではない。…これはわかりやすい例えだけど、じつは小さなレベルでこれと同じことが起こっているんじゃないだろうか。すでにある環境でむりやりなんとかしようとがんばってしまい。もしかすると違うことを考えたほうが先に答えに近づくことはある。ルールなんてない。答えを出せば勝ちのゲームは、自分で考えるんじゃなくて知っているひとに答えを聞くのもあり。だったら知っている人を探せばよい。

現代アートを購入した

ずっとずっとほしいと思っていたアートを買うことがどきた。まあまあ高い(実勢価格を考えれば安い)買い物だったけど幸せな気持ちになる。服を買ったときとも違うし、美味しいものを食べたときとも違うし、ただ幸せな気持ちであることに変わりはないけど、うまくことばにできない不思議な気分。確実に言えることは買ってよかったということ。あるのとないのとで確実にあるほうがよい。毎日みていると麻痺してくるのかと思ったけどそうでもない。毎回ああよいなぁと思う。何がいいのかわからない。2年前に一目惚れして買いたいと思って買うことができなくてセカンダリーに流通してしかも近所のギャラリーでしかも色違いが2枚セットであって、いろいろ重なったのはあるけど、それを差し引いてもよい。もったいないから一枚だけ持ち帰って色違いのもう一つは置いてきた。年末に届くようお願いしといた。忘れたころにやってくるとしたかったけどいまのとこぜんぜん忘れていない。

誠意

正しいと思うことを誠意をもってやればわかる人にはわかってもらえる。ルールだからという理由でうまくいかなかったとしてもルールをともにつくっていこうという同志になれる。間違っているなと思うことを中途半端に押し進めるより、正しいと思うことをやってできないほうがよい。大事なことは理屈や論理ではない。現実を見据えて実現可能な解を探さなければならない。論理は価値観のうえに成り立つ。価値観がしっかりしていないとそのうえにいくらロジックを組み立てても説得力にかける。正しいけど動かないという状態。琴線に触れないから。心を揺さぶらないから。
アドラー心理学的でも目的論と原因論が書かれている。因果関係はあとづけ。決まっていて理由をつけただけ。やりたいことありきだから、〜だからという修飾子にあまり意味はない。原因はなんとでもなる。それよりもむしろ、どうしたいか、どうすべきか。

最近、土日は泳いでいる

ストリームラインをキープすることを意識しながら泳いでいる。止まりそうになっても足をつかずに浮かんでいることができるようになった(そいえばガチでやっていたときこれできてたっけ?)。長い時間だらだら泳いでいると感覚が変わる瞬間がある。重心は胸のほうに上半身でもっておくと腰が浮きやすいんじゃないかとか。力の入れ方と力を入れる場所はちょっとした違いでぜんぜん楽になったりする。水をかくときは腕の力を使わずに全身で背中を使って引いてくることができるんじゃないかとか。へんなくせのある泳ぎ方で疲れないよう集中して泳いでいると、次々と改善点や発見がでてきて、飽きない。土曜夜の市民プールはガチ勢が多くておかげで2キロくらい連続で泳いだ。サークルでもないのにこんなにもしかも25メートルプールで泳いだのは久しぶりだなぁ。筋力的なところよりも心肺的なリミテーションでスピードがあがらない。こればっかりは地道にやっていくしかない。自分がやにならない程度に。運動することは心身にとって間違いなくよいこと。