なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

身体的なリスク

体調管理はほんとに大事だ。どこかに不具合があると通常のパフォーマンスを発揮できない。何か気になっていることがあると、どうしてもそれに引きずられてしまって「いまここ」への集中力を欠くことになる。そして病気を正当化の理由として自分をセーブするのもダサい。不具合があれば治せばよいのだけど、病気というものは一定の確率で起こり得るものなので、どんなに気をつけていても自分の体でありながら自分でコントロールできないこともある。日々無理するためにも、心身ともに健康でいるためにメンテナンスは必要。

interaction

恋は意思決定だと考えたことがあったが、意思決定は自分の問題だから、それは圧倒的なひとりよがりであり、相手によって自分が変わる。自分によって相手が変わる。当たり前だけど関係性のなかで成立する。意思決定はあくまで初期の段階で、関係性は自分の相手と共創することになる。機械と身体のインタラクションをどう回復するかみたいな議論があるけど、対人間においてもそもそもインタラクションが根本にある。付き合ってみないとわからないのはまさに言葉どおりで、関係性においては自分でコントロールできることとできないことがあり。固有の関係性は唯一無二で。複製ができない。無理やりコピーしようとすると無理が生じる。行為としては同じことだけど心が伴っていない。愛している人との行為とポルノとの違いはそこにある。動物的な共感があるか。東さんが「インタラクティビティは複製可能でない。インタラクティブを強引にするとポルノになる。外側からわからないもので、わかるようにするために複製可能にするしかない、複製するとポルノになる、これをどう解くか」という問題提起をされていて(*)、意思決定だけじゃないなぁと。

* 2018.10.29 テクノロジーは社会をどう変えるのか? ーー アートとテクノロジーが出会う場所 #BLOGOS https://blogos.com/outline/336053/

全速力

日常生活において全速力で駆け抜けることはあまりなく。どこかで制御している。全力を出そうと思ってもどこかで制御されるのだから、あえて出そうとしないとシュリンクする。力を振り絞って追い込んではぁはぁするとたしかに疲れるし、ダメージが残る。だけどそうやって追い込んで回復してまた強くなっていくのだから、限界点を意識してあげにかかることは大切なことだと思う。人間はほうっておくと楽なほうに向かうのだから追い込もうとしてようやくイーブン、自分の限界ラインを瞬間でも超えてピークアウトしないとストレッチしない。

たいていは逆

不自然な肯定的リツイートが増えたり、同時多発的に複数のメディアで褒め称えられると、たいてい現場はテンパっている。自然発生的なバズなのか、人為的なウェーブなのかを見極める必要はあるものの、仮に人為的なウェーブであるならば、外部にポジティブな記事が出れば出るほど、中は大変な状況だと思う。外向けに発信するには理由がある。逆の現象が起きていると思ったほうがよい。素晴らしい会社だから人を募集しているのではない。wantedlyなどにのせている企業は、人が足りていないから募集している。そもそも不足しているからそのギャップを埋めるためにメディアを使っているのであって、現状問題ないならあえて金かけて自分たちの直接的なユーザー以外に広報なんてしない。必要ない。ごくまれに利害関係ないひとがピュアに伝えたいからという理由だけで、拡散してバズることはあるけど、ビジネス的な文脈で考えれば、ごくまれだと思う。たしかになかにはそういうピュア層が混ざって自然現象のように見えることもあるけど、手綱を引いているコンダクターはいるわけで、そこにお金が絡んでいるので、ただ単に表面的な現象を鵜呑みにするのはちょっとあぶない。正しい現状認識をするためにも感覚的に人為的なものとそうでないものを見極められることは超大事。

圧倒的な距離感

写真を撮ればどんなものでもスマホのなかにおさまってしまうけど、リアルはスマホにおさまらない。月を撮ってみるとたいていうまくとれない。圧倒的に写真じゃ足りないのだ。きれいに撮ることはできる。でもぜんぜん足りない。自然の広大さ。まだまだ現代のテクノロジーでかりとることはできない。38万キロという距離は倫理的にはわかるが、リアルに感じることができない。数字に意味が追いついていないのだ。でも現実にはそれが見えていて実現されている。なのでぼくたちは、何が起きているんだ!ということをただ受け入れるしかなく。そこに月がある。このなんとも言えない不思議な感じ。

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オペレーショナルは悪なのか

定食屋のおばさん風なメンタリティを保ったままファミレス化することはできないものか。汎用的な仕組みをつくってはめていくのは悪いことではない。しかしながら、個別特化型のゲリラ戦に持ち込まれると都合が悪く、最終的に全体でも負ける。ブルーオーシャンな時代は薄くても勝てたかもしれない。が、安易に広げて効率よくするために定型フォーマットをつくりこれまでのベストプラクティスに乗せようとしだすとこの罠におちいる。人に依らず比較的同じような結果が見込めるのでマネージメントはしやすいかもしれない。しかしながらオペレーショナルが先行してしまい意味を意識しなったとたんに機能不全におちいる。作業者は考えずに(考えてもそれ以上の答えがないから)そのオペレーションに従って悪気なく行動してしまうが、これがお客さんからしたら「なんなんだこいつは!」状態。これまではお腹ぺこぺこの若者にはサービスでちょっと多めにしたり、ダイエット中の女子には少なめにしたりでトータルとんとんだったものが、全員同じ量にし、あげくお客さんからリクエストがあったとしてもルールにないという理由でできないと切り捨てる。これが諸悪の根源だ。もともとフリーダムな時代にはカスタムメイドができていた。でも増えてきたから何パターンかに分類して標準化。標準がすでにある時代は標準がなぞられ、はみ出せない。ここで思い出してほしい。そもそもどういった経緯で標準ができたのかを。それを考えれば、標準からの逸脱も許容されるはず。有名になってオリジナルなよさがなくなってきたよねとファンが離れてしまわないよう、サービス提供側は常に自問し続けなければならないと思う。標準化はマネージメントのわがままなのかもしれない。