なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

衣食住とエンタメ

私たちはプロダクトに対してお金を払う。スターバックスの空間でもそういう解釈をしているだけで、実際にはコーヒーに対してお金を払っている。わかるものに対してでないと買わない。時間でいくら、みたいな業もあるが、結局何にお金を使ったのかわからずじまいで、もやもやする。自分でもできたんじゃないか、自分で調べる時間を買ったんだ、そう理解し、納得することはできる。ただそう思わせてしまった時点でサービス業としては負けかと。実態のわからないものに価値はない。

ところが、実態のわかるものはコピーされ、自動化が進み値段がさげられる。しかしながら、それを必要としている人々はいなくならないので(クリーニング店など)効率化して、大量に安くできる地方のショッピングモールのような形態が大半を占める。ニッチな部分で生き残るサービスもあるけど、まねできない何かがそこにはある。必要な人がいる限りなくならない。これが衣食住に直結しているビジネス。

エンタメ系のビジネスは「なくてはならない」でなく「あったらいいな」。効率や削減ではなく新しさが重視される。ベンチマークはなく値段の変動が激しい。私たちは知らないものに興味をひかれる。恐らく、架空の人物であったとしても聞いたことのないコンセプトや新しさを感じられれば、それを手に入れたい、体験したい、追求したいと思い、そこにお金を払う。わくわくに対してリスクマネーは集まりやすい。どちらの世界で生きるか。

機能しないルール

クリティカルな状況において、法律などなんら機能しない。法律は適用される単位がある。1人ではなく、多くの人が関わり、組織的に対処しないとだめだわ、という経緯でできてきたものだ。例えば、アフリカの医師がほとんどいないところで、医師免許がないという理由だけで診断してはいけないというのはなんの意味もなさない。外科的手術のような特殊技能が必要とされる処置や治療ならまだしも診断、というか現状を把握するくらいのことはポータブルなデバイスで誰でもできる。間違っていたとしても人を傷つけるわけではない。そういった状況で法律がどうの、なんて言ってるやつのほうがどうかしている。戦場やジャングルで人が血を流していれば救急の対応を取らざるをえないことを考えれば、治療にだってその限りではない。ルールありきで機能している社会から原始的な状況にふられると、瞬発力や判断力の格差が大きく。いわゆる頭でっかちでなんもできない奴になる。
今年のCESはmental well-being がトレンドらしい(*)。FDAはたしかに未検証の医学的主張を防ぐ立場にあるが、睡眠、瞑想、リラクゼーションなどの分野で機能するか。統計的な優位さをもって示せなくとも、だってそうなんだからということはでてくるような気がする。

* Mental well-being took center stage at CES 2019 https://techcrunch.com/2019/01/11/mental-well-being-took-center-stage-at-ces-2019/

貨幣論

お金そのものには価値がない。金は使ってなんぼ。前澤さんが1億円お年玉で「お金は使い方次第でこんなにもドキドキできるんだなと」とツイートされていたが、金額ではない。その先にある夢がメインでお金はサブ。媒体でしかない。お金が先にでてくると価値のないものに対して価値があるようにみせるという思考になる。個人的に予算を取りにいくという思想はあまり好きでない。そればかりやっていると予算をとるためのロジックばかり考えるようになってほんとうに意味のあるものかどうかがわからなくなる。多くのパブリックセクターでは業務量の割にほんとうに動ける人が足りていなくて、実務が追いついていない。そのため、うそでもいいから”よさそうにみえる”企画をたてることばかりに注力してしまい、ほんとうに意味のあるものもそんなクソみたいな企画と比較される。そこで、正当にふるいわけがされればよいのだけど、評価基準がロジック一辺倒だから、クソでもロジカルに説明ができれば勝ってしまう。自分たちでの正常なフィルターは、いまの仕組み的に期待できない。
本来は価値のあるものが先にあってそれに対してじゃあいくらにしようかと実態が先行する。価値のあるもののお金はいくらが妥当かはわからない。価値とお金は独立。金銭的指標はダミーである。既存製品や法律やマーケットと呼ばれるものがあってなんとなくそれに引っ張られ、相対的にそれらしい金額が決まっているだけだ。インフレして機能しなくなることを防ぐために適度なバランスを保っている。0なんて何個あっても意味がないから、特に問題にはならない。感覚的に慣れている数字に引っ張られているが海外紙幣の価値がわからないように自国通貨だってそこに意味はない。日本のテレビ番組「はじめてのおつかい」でこどもが100円と間違えて千円札出してた。その感覚が正しい。
お金を稼がないと会社も人もやっていけないから、お金になりそうなことを最初に考える奴がいる。でもぼくは間違っていると思う。ある経営者に「儲けようなんて考えてはいかんよ」と言われたが、その真意は「儲けなければいけない」というわかりきったことには触れず、本質を突き詰めろ、そうすることで結果的に儲かるはずだ、というメッセージと理解している。

笑う門には

楽しくしてないと楽しいことが寄ってこない。だから楽しそうにしていることが大事だよねってその通り過ぎて、最近できてなくてやっぱり真っ直ぐに生きている人たちは気持ちが良い。何か思いがあって来たんだろうからと察してくださり。普通の人にみえるといわれ、これはやばいなと。おれなんてなんも考えてねーよ、と言いながら楽しそうにしてると、なんでかわからないけどつながりができる。頑張ったって意味ないというのは一理あってすぱっと切って思い切り遊ぶと、既存のお客さんは切れるかもしれないけど、またそったのお客さんがつくようになる。無理し過ぎて自分に嘘をついてまでやらなければならないことなんてない。やりたいことやってたほうがいいに決まっている。おもしろいことを追求している人たちは刺激的。まさかあの人がYouTuberになっていたなんて…

押しつけ

マンションなどで子どもが飛び跳ねていけないのは「まわりに迷惑がかかるから」という理由。たしかにどんどんされるのは近隣に迷惑かける。しかしながら、それはよくよく考えてみれば、子どもにとって良い悪いではなく、その環境にいるというこちらの都合に過ぎない。子どもはジャンプしたくて、ジャンプする。むしろ子どもはジャンプさせてあげたほうがよいかもひれない。それをたまたまそこにいたという理由でダメだという。
そもそもこっちの都合よく考えているだけで、あっちはなんの罪もない。無自覚に押しつけてしまっていることはある。すごく雪が降ったから電車が止まってしまったとか、よく考えれば電車で走ろうとしているほうが間違っていて、雪は普通に降る。そこに人工物を押し込んだのは人間のほうであって、それをどうこういうのは筋違いだとも解釈できる。

Jean-Michel Basquiat

今年は日本でもバスキア展が企画されていてとても楽しみだ。そしていま、スターになる前のドキュメンタリー映画が上映されている(***)。かれらにとっての憧れの象徴でもあるアンディにポストカードを2枚売ってはしゃぐ話が好きだ。ストリートからスーパースターへ。
◯一貫
当時、誰もが好きになったそう。ストリートのグラフティから個展を開くようになってキャンパスに描きだしてからも変わらない。同じものを描き続けると誰の作品かがすぐにわかる。
◯純粋
作品の説明は不可能、ほとんどautomatic。でありながら、ラインのひとつひとつに根拠がある。
“these look very sloppy these paintings,but every line and everything I do, I know exactly what I do. and it has to be like that. don’t you think this is not or this is done by chance, so these things.”(*)
「描きなぐりに見えるが、どの線も考えて描いている。根拠がある。決して思うなよ。偶然の産物だなんて。」
◯即興
音楽をかけテレビをつけ、永遠に描き続けていながら速い。短期間で多くの作品を描いた。ウォーホールも自分より仕事が速いことに驚いたそう。
He never copied. He always improvised a total revision.(*)
コピーをせず、完全な改作を即興で創り出した。
◯独創
“If you wanna talk about influence , man then then you’ve got to realize that influence is not influence. It’s simply someone’s idea going through my new mind.”(*)
人の影響といっても、いわゆる影響とは違うものだ。誰かの発想が、僕の新しい思考を通り抜ける。

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* 2010「バスキアのすべて
** 1996「バスキア
*** 2017「バスキア、10代最後のとき」
http://www.cetera.co.jp/basquiat/

 

芸術実行犯

「そもそも『正しいこと』は最強です。『正しさ』の前に人は異論を捉えられない。だから『正しさ』の使い方を間違えると本当に危ない。既製の道徳に縛られないからこそのアートに『正しさ』を求めるなんて一周回ってプロパガンダの発注者と同じ思考だと思います。世の中は善悪入り乱れるカオスです。イリーガルだから悪という言い分だって疑わしい。何を持って善悪か、アートは正しくなくてはいけないのか。社会が本当に正しいのか。」(*)最近の美術手帖、個と公の関係でも卯城さんが言っているとおり、ヤバいやつはワンパッケージで語れない。どうしても表現したいことが出てきたときにそのときの法律が禁じているときたらアーティストは簡単に超える。岡本太郎の壁画に「原発」を付け足したりするのは、たしかにイリーガルかもしれないが、法律うんぬん以上に、人々が思いを馳せ、社会の議論を巻き起こすエネルギーがある。岡本太郎自身も刺激を与える生きた芸術として人々に作品をさらすことへの意思があったし、作品の意味を理解したうえで確信犯的にやっているし破壊的な創造性がある。作家性や難しい解説付きのコンテキストで生きるのではなくていまここにカウンターを入れることへのこだわり。多くのアーティストが大衆のわかりやすいかたちに回収されるなか、それに抗い、現在を見据えている。ただおもしろい、かっこいい(ハイセンスであることが大前提)だけで実はコンテンポラリーアートは難しくないのかもしれない。少なくとも庶民的にそうだよねと共感できる。戦時中でも絶対ふざけたやつはいただろうけど、戦争を振り返ると二度と繰り返してはいけないだの、悲惨なことだのと、優等生的なことしかマスメディアには出てこない。カンボジアで地雷撤去を好きでやっている人たちの話が好きだ。地雷撤去や爆破をする理由が「スキダカラ」。悲劇的な話をリアルに直面している人々のユーモアや笑い。福島で行った「気合い100連発」も当事者ならでは。ロシアのヴォイナの作品「KGBに捕捉されたペニス、ヴォイナの65メートルのチンポ(***)」は過激だけどアートとしか言いようがない。実際、ロシア文化省から現代美術部門のイノベーション賞が贈られたらしい。レベルが高いし、かなりヤバい。ロシアのアクティビストはガチ。政治や社会の心臓を刺しにいっている。

* Chim↑Pom 「芸術実行犯」

** 美術手帖 The Public Times 〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

https://bijutsutecho.com/magazine/series/s16/18854

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