なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

アート原論

アートは無血革命であり、「特殊」と「普遍」の両立させている。私から私たちへ。アートだけでは不安定だから「キュレーション 」という技術が必要とされる。以下、引用。

「近代以降出現した「アーティスト」を自称する人々は、自分の個別の身体から生み出された仕事の特殊性を強調しながら(「これは自分にしかできない」)、にもかかわらず普遍的な価値を有していると主張する(「これは社会全体、人類全体にとって意味があるのだ」)。このにわかには承服しがたい理屈に基づくことで、アートには公的資金(税金)が投入され、購入、保護、研究がなされている。ひとつのアートが世界を変えうる。無血革命を起こしうる。普遍的でありうる。社会性を備え、一般性を獲得しうる。つまり、あなたに関係している。未来につながっている。それを信じたい気持ちはやまやまだが、しかしそれは突きつめていくととても根拠薄弱に思えるし、アートをやる余裕のある人間が「We」だということは不遜で傲慢で恥ずかしい。キュレーターはこの当面の「うまくいってなさ」を調整する技術として出現している。キュレーターとはアートを「反省」する制度である。アートを「解放」させない装置である。それゆえキュレーションとはひとまず諸技術の編成体であると言いうる。それが単なる技術である限り、それは分析(隠蔽)が可能であり、共有(独占)が可能であり、改良(改悪)が可能である。」(*)


* 2019.03.15 アートスケープ
世界変革のとき──キュレーションについて
長谷川新(インディペンデントキュレーター)
http://artscape.jp/focus/10152877_1635.html

日々の活動のなかにある

文化は目に見えないが明らかにある。生命の営みに近い。リアルタイムにしか存在していないが人から人へと繋がっていく。1人ではうまれない。2人以上が関わると何かがうまれ。日々活動していれば残るが、活動しなくなるとたちまち消えてしまう。ノリとかテンションみたいなもの。社会的な組織であれば、学校であれ会社であれ、続いてさえすれば、何かしらが蓄積され、それがかたちを変え、人に渡っていく。デジタルにアーカイブできることは増えたけど、そこにしかない熱はそのときその場にいないと感じ取ることはできない。生きていることで文化がうまれている。文化=人の交わり×リアルタイム。

解釈の隙間

吉田選手のハンドをめぐる良記事(*)。FIFAの定めるハンドの定義はこうだ。「ボールを意図的に手または腕で扱う(ゴールキーパーが自分のペナルティーエリア内にあるボールを扱う場合を除く)」。意図的というところに解釈の余地があるそう。VARが導入されても事実の解像度をあげるだけで、それが意図的かどうかは人にしか判断できない。審判は自らのジャッジをロジカルに説明できるという。説明できてしまうと心情的には違っていても別の結論に到達することがある。ロジックは感覚を超える。「そうなんだから仕方がない」と気持ちを閉じ込めることもある。ディフェンスの無意識の意図ということまで考えだすともはやオフェンスの意図が上回らない限り、説明ができない気がする。意図とは「何かを行おうと考えている事柄や、思惑、もくろみのことで、意図的は目的や考えを持ってわざとするさま」。ディフェンスは「守る」という意図があるから、自然に手に触れたようにみえても、そのコースに手を出したと簡単に説明がついてしまう。なんだかすっきりしない。本当に意図がなかったとしても説明がつかないという理由で、意図があったとみなされることへのもやもや。手を後ろで組んでいる選手もみかけるが、ハンドをしないという意思表示か。アクティブにノーを示せばイエスではないという抵抗。手を使わなければ身体のバランスは取りにくくなるので、ハンドのリスクと動きにくさのトレードオフ。解像度があがることによる選手への影響。テニスではインアウトの判断が微妙なときにチャレンジできる制度があるが、回数は決まっている。ゲームの流れを重視。みえないものがみえるようになり、あいまいさは排除できる。一方で、際どい判断を迫られる。説明が求められる。正しさは倫理観なので、立場によって異なるため正解はない。ルール=ロジックである。人間はロジカルだからといって正しいと感じられないこともある。VARは同時にルールの正しさも私たちに突きつけている。


* 2019.3.2 日刊スポーツ「吉田麻也はハンド?VAR判定導入しても異なる解釈」
https://www.nikkansports.com/m/soccer/column/writers/news/201903020000397_m.html?mode=all

権限とガバナンス

権限があるということはあぶないことでもありその決定が最終となるため、簡単に判断してしまうことができてしまう。法的なことに関しては知らなかったでは済まされず、誰も守ってくれない。そのために監査や社外取締役などがいて、ガバナンスを効かせている。当事者からすれば面倒な手続きでもあるけど、正しく機能すればそういう仕組みによって自分が守られる。社会のさまざまな仕組みはそれぞれ意味があって、形骸化する前にそもそもの存在意義を捉えたほうがよい。

むしろそこだろ人がやる仕事は

弁護士とか弁理士とか司法書士とかきっちり時間チャージしてきてほんとうに腹立たしい。助言をバリューで売ってんだから、わからなくはないけどやっぱりこいつらクソだ!はやくAIに置き換わってほしい。いや、時間チャージするのは問題ない。法的に問題ないてとこだけ機械的に処理するやつが嫌いだ。解釈に幅があるだろうと。書いても問題ないけど、書かないほうがいいとか判断できないやつ。こっちはスレスレを狙いたいのにガチガチにしやがって!こちらの伝え方が悪いのか、相手のおもんばかり力が足りないのか。正確にやろうとすればするほど何もしなくなる。そんなのいちいち確認していたら間に合わないので勝手によろしくやってくれよと思うのだけど、なんだかうまく伝わらなくて、同じインプットでもアウトプットちゃんとできるやつとできないやつがいる。法律にはこう書いてあるけどじつは御社であればこうなんじゃないの?みたいなコメントは自分たちの仕事ではないと思っている人たち、ほんといらない。むしろそこだろ人がやるべき仕事は。

たぶんKPIが間違っている

儲かる儲からないだけの軸だと、儲からないからやらないという結論で終わる。儲からないけどやるといのも無理している気がして、そんなにいい気分ではない。儲かるというのも、いつ時点かによってぜんぜん変わる。果たしてほんとに儲からないと持続できないのか。赤字を連続で計上していても優れたベンチャー企業にはお金が集まる。儲からないからやらないというのは、安定して軌道にのったビジネスだけで十分。重力に反発して宇宙に突き抜けるような、それくらいロックなメンタリティが必要で。のっている人は自分軸で動いているし、いまは応援してくれる人もいる。みんな儲けることにそこまで執着していないのでは。結果的に熱狂すれば儲かるけどやりたいこと、やるべきことありきでコトは進む。社会はそうやって支え合いながら進歩してきたわけで。無謀なチャレンジをするやつは応援するべきだし、幸運にもちよっとばかり儲かったやつは社会に還元すべき。あきらかに自分だけの力ではない。そういう循環がいまの社会にないのであれば、既存にのっかったら負けで、そこから新しい何かは生まれない。いまの社会、いまの仕組みがうまくないことを潔く認め、変えていくしかない。

現場

ラーメン屋の厨房でも、郵便局の窓口でも、とにかくカウンターでお客さんと対峙しているところに価値がある。意味のある行為をしているのは現場なのだから、その人達がもっとも働きやすく環境を整えるべきで、その人達がもらっているお金は多いとか少ないとかいろいろあるだろうけど、それぞれに生活をする必要があって、その人たちが満足した生活ができるだけの給料が支払われなければならない。そうした現場を持続させるために組織がつくられ管理部門が存在している。本来は現場だけで良いけど致し方なく管理部門がある、ということを管理者は忘れてはならない。