なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

これはさすがに…

IT担当大臣が「日本の印章制度・文化を守る議員連盟(はんこ議連)」の会長も兼務している。繰り返しになりますが、私がこの世で三大嫌いなものは、印鑑、契約書、メガバンクです。

2019.9.13 印鑑との両立目指す=竹本IT相:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2019091201108&g=soc

戦略の条件

事業が誰かのニーズに適合させていくことだとすると、一方的に流されるだけでなく、自分たちでどれだけドライブさせられるかを考えることが戦略。大義名分を掲げつつ、実際に自分たちがやりたいこととどうやって両立させるか。例えば、新しいことが10あったとして10出してしまうとラディカルで抵抗があるときに、8は隠して2だけ見せ、残りの8はデコレーションしておくなど。やりたいこととは少し違う形式に変えておく。否定しにくい、たとえばSDGs働き方改革など、規制官庁が推進しているようなことに(くだらないと思っていたとしても)寄り添いながら、本音はわかるひとにだけわかってもらえればよいというスタンス。社会実装のための必要条件。ロックなコア層だけをつかんでゲリラ的に仕掛ける、みたいなフェーズから拡大安定路線に切り替えていくときには、ひとつの方法として(つまらなくなったと思われることも覚悟で)適切なみせかたをしていく必要がある。このあたりは価値観でアンチを増やしつつサポーターとのつながりを高めるという考え方ももちろんある。

事業の条件

事業を作っていくことは、誰かが困っていること、不便だなと感じていることに対しての解決策なわけで。それに対する対価。ユーザーとしての自分の感覚は必要だけど十分ではなく、自分と同じように困っている人がいるはずだ、という気持ちが含まれ、つまり、基本的には人助けの側面があり、強く変えていきたいと思えない限り事業はうまくいかない。自分だけでよければすぐに解決する。何かに対して働きかけるという情動、自分がやるべきだという使命感がオンされてはじめてまわりはじめる。会社のビジョンはそういう根本的な外向きのエネルギーがつまっていないとうまくいかない。うちむきに向けられた性格は未来志向ではないし、拡がりにくい。やりたいことをやってそれに対してお金を請求するのは独りよがりでしかなく。アーティストのようにたまたま好きなことで食べていけるひとはごくわずか。しかも希少価値が高く、かつ、人をわくわくさせるセンスをもっていないといけない。外向きなエッセンスは、好きなことを仕事に繋げようとするとき見落としがち。原体験と呼ばれていることから人からお金を払いたいと思わせるものへの繋ぎは慎重に考えたい。よいと思っているサービスが受け入れられるか、市場がどう反応するかは、やってみないとわからないけれども、払わせるという感覚は間違っている。誰かのために意味のあることをやっていて、払いたいと思わせる、というほうが正しい。すくなくとも事業に関しては。

純度と自然

通りすがりで「なにこれ?」とチラッとみただけででもそこにアートがあったことで、すくなくとも「あっ!」となっていて、その瞬間がなんか好きで。嘘がない。かりに嫌な気持ちになったとしてもそれを美しいと感じる。人間のピュアな部分に触れていたいというのが根源にあるとおもう。数学的な数式の表現も、それがこの世界を正確に表現していて、曲線のカーブが美しいと感じるのと同じように、概念も自然に拡張されているのが美しいと感じる。美しいという形容は好きという情動からきている。

手数料

手数料という考え方は筋が悪い。中間マージンは関所みたいな感じで、いままでなかったのにあるかのようにしてコネクティングコストをかけている。情報のつなぎはたしかに媒介者のセンスかもしれないけど、それによって継続的に課金するというのは結局何に対してお金払ってんだっけと思われる。既にできてしまったものへの見返り料的課金ではなく、現在進めていることもしくは将来に対しての対価を考えたほうがよほど筋がよい。

アート購入に至るまで心の動き

すでに確定しているものを探しにいくのか。あいまいなままで購入するのか。個人的にはアートに関しては圧倒的に前者。ギャラリーでいいなと思えるアートにめぐりあったとしてもそこで「よし購入しよう」とはならず、もう心が決まっている状態で、作品決め打ち、もしくは、アーティスト決め打ちで、じゃあどれにしようかと選ぶ。ソーシャルやバーチャルで既に落ちている。リアルでみて、ああやっぱりいいなぁ、リアルアートは違うなぁって。そう考えると、作品そのものの強さだけでなく、何に取り上げられているか、何かとコラボしていたり、センスがいいなと思っていることのデザインとして使われていたり、その人の生き方だったり、発言だったり、文脈だったり、物理的なものからはみ出している概念をつかんで近くにいてほしい、そこから何かを感じとる、自分にとって何かしらの意味がある、そういう存在感のあるアートに対してお金を払いたいと思う。逆説的だけど意味がないと思えるもののほうが潜在的な部分への働きかけが強くて、揺さぶられる。

粛々と

夜のうちに台風が過ぎ去った。各々が自分の家や会社わまりの散らかった落ち葉やゴミの掃除をしていて、そうやってひとりひとりが街全体を綺麗にしていくのだな。放っておくこともできるがなぜか自分のまわりだけはと、きちっとホウキで掃いている。誰に言われることもなく。外国だったらこうはいかず汚いままでそのまま後戻りができないごちゃごちゃした場所になる。ひとりひとりが少しずつあたりまえのようにきれいにすることで全体としての調和がとれている。