作風
作家の人間性をのせないと個性はでない。人間は生物的に完全にオリジナルなものはつくられない。ある一定の幅をもって異なる個体が存在する。
ジュリアンオピーのようなミニマリズム、シンプルな線の表現に憧れると同時に、インベーダーのようなストリートアート、グラフティへの興味。この線(*)への関心、根元は何か。素晴らしいものの途中過程で何ものにもなれなかった自分の投影か。一番をとれないが平均は出せるというポジショニングか。社会的に良い顔をしたいといういい子とそれに反抗して立ち向かう方がかっこいいという二面性を共存。自分を掘り下げるとオリジナリティはあるはずだが、まだそこにいきついていない。
技術をもってして崩し、かつ、繊細さ胆力をもってして大胆に下手くそに。キャンバスに描けば売れる気がする。下手くそなんだけど細かいところはきっちりしている。落書きとの違いはそこだ思う。コンセプトは5分くらいでできるが、仕上げは相当に細部まで撤退するのが作品。一瞬のひらめきと地道な積み上げ。
(*)
モチーフ、ソーシャルコネクト
アーティストがミッキーや肖像画などわかりやすいアイコンを用いるのはみんなが潜在的に保有しているからか。相手が持っているものに接続すればゼロ地点からのジャンプではなくなる。社会との接続も同時にできる。同じ切り口ですでにある企業ブランドを活用する手はどうか。日本でのコンビニなら青はローソンだし緑はファミリーマート、銀行なら赤はUFJだし青はみずほ…色のイメージはすでに刷り込まれているし、幸いなことに企業はそれを推進している。モチーフとして社会に定着しているロゴやブランドを用いるのは喚起させやすい。例えば、MADSAKIさんが村上隆さんのお花やマリリンモンローのポートレートを使って再構築するのはその行為自体がアートなのかもしれないし、へたなブラシペイントでも誰かの心を動かすことがあるから活躍されているのだと思う。
その場にとどまるという動き
止まっていることは、自然の摂理でないのだとすると、滞留していることはそこに力をかけているともいえる。庭園の鯉をみて。
基本と応用と繰り返し
千住博さんのドキュメンタリー(*)。高野山の襖絵を描くストーリー。下塗りは40年間基本を外したことはない。美大の一年生が学ぶことを繰り返しているという。そのうえにオンするのは新しい手法。描きたいものにベストな描き方を模索していく。崖のモチーフはゴミ箱の中で偶然に発見されたものだという。描いてくれと言わんばかりの表情をしていたそう。自分のスタイルに捉われず、全画業をかけて絵に向き合う姿勢。仕上げに関してはここに筆を入れてくれと言われているとしか言いようがないとのこと。自分の絵との対話。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/92625/2625266/index.html
勝つか負けるかは決まっている
誰かに何かをお願いするときに、ゼロから作り出そうとするのはかなりハードルが高い。新しいことをさせるのではなくてユーザーが既に持っている部分を触りにいくような感覚。そうしないとなどは簡単に動かせない。決着は企画の段階でもう出ている。動かそうとするのではなくて自然に動く方法を。情報をみて何かしら刺さるのは持っているものとつながるかつながらないか。新しいことを狙い過ぎると誰でも抵抗はある。実はそれほど新しくないことに人は反応する。
主体性
関与の隙間。みえていても差し込む場所を作っておくとあちら側のモチベーションが大きく変わる。このとおりやってくれともっていくのと一緒に巻き込んだかたちにするのと。