なにそれ経営者のブログ

女の子は好き。でも結婚したくない。

変わることが正なのか

disruptは、イノベーションの文脈で聞くケースがほとんどで、なぜかdisruptiveを否定できない空気を感じている。ほんとか。毒されていないだろうか。これぞまさにフィルターバブルじゃなかろうか。disruptiveの意味は混乱するとか秩序を乱すというもので、日常的にあるとするとちょっとやめてほしいとも思えるような概念。市場を創造していくうえでたしかにぴったりな表現だが、社会の基盤がもしdisruptiveだとすると、とても疲れる。日本語で否定的に感じ、英語では肯定的に感じる矛盾。つながっていない。変わることが正であるという、いわゆるダーウィンの進化論的考え方。しかしながや、世の中のたいていのことは連続的で緩やかに変わっている(だからこそ桶狭間的なこれまでの常識では考えられないような戦略が一気に形勢を逆転させる力を持つのだろうけど)。
そもそも働きたくない、仕事を増やしたくない、という人たちは抵抗勢力に思えるけれども、相手の気持ちはわからなくはない。彼らにとっては我々が抵抗勢力で。変わることためにはエネルギーがいるし、ストレスがかかる。場合によっては血も流れる。これまで生きてきたのになぜいまか。しかも当事者でもない人たちにやらされなきゃならないのか。歴史を振り返ればチャンピオンデータだけが注目され、美しく、かつ、わかりやすい理論だけで語られるけど、実際には現場は混沌としていてジャンクなものが混じっている。むしろゴミデータのほうが多い。

一回死ぬ方法もある。弱い人かいて強い人がいる。全員が全員、強い路線でいけるわけではない。強いものがいいとも限らないし、変わらずに生き残っている人たちもいる。現場のベストは一般論にならない。僕たちは(いまのところ)人間を相手に仕事している。

学びとは"つながり"に気づくことかもしれない

ユージン・ウィグナーは「自然科学における数学の理不尽な有効性」という論文で、自然科学と数学を結びつける調和は unreasonable なeffectiveness であると述べている。認めざるを得ないけどそうなっているという表現がなんとも物理学者らしく微笑ましい。理屈というのは最初から存在しているわけではなく、人間が勝手に作り上げてきたもので、そっちからみればそうかもしれないけど、じつは同じ対象を違った角度からみていただけで、そこでつながっているんだよという発見。例えば、数学の世界では、アンドリュー・ワイルズフェルマーの最終定理に楕円関数の特性を応用したり、アインシュタイン特殊相対性理論にリーマンの非ユークリッド幾何学を応用したり。各分野、専門を突き詰めて深遠なところでなぜかつながる、というところに感動と美しさがある。分野が離れていればいるほど驚かされる。それをそう使うか!的な独創性。
人間が学ぶことに気持ちよさを感じるのは、このつながりに気がつくからなのかもしれない。子供は「自分が知っている全てが全世界」で最初はひとつひとつばらばらに認識し、世の中のことにいちいち驚く。たぶん初めて見たというだけでなくそのつながりを発見してわぁすごいと脳が興奮しているんじゃなかろうか。誰かがすでに発見したことであっても(たいてい自分がよのなかではじめて発見することは少ない)自分が知っていることどうしがつながるとテンションがあがる。知識が増えるにつれ、概念をまとめていかないと理解が追いつかなくなるのである抽象化して世界をとらえはじめ、そのパターンに整合させながらみてしまうけど、そもそも自然の美しさは全体的で包含されているので、偏った知識でとらえるのはあまりにもったいない。さらに同時代に生きた人々は互いに影響しあっていて、誰が誰の先生だったとか、そういう歴史的なつながりを知ることもおもしろい。

人間はいまだにたし算とかけ算の関係すらわかっていない

中高生にわかるIUTの解説ということで加藤先生の講演を聞きに行った。感動した。なんとわかりやすい解説か。望月先生の論文がヤバいヤバいと騒がれているが、世界で理解できている人が数名という話ではなく、数学的にみてどれくらいウルトラC的な発想をしているか、ということが理解できた(気がする)。そしてご本人がおっしゃっているように、実は言われてみれば、"自然な考え方である"というメッセージも刺激的。

「私が講演の中で言いたかったことは、この『複数の数学舞台を駆使する』というのは、実はかなり自然な考え方なのではないかということです。」(加藤先生のtweetより)

 

以下、記憶を頼りに起こしたメモ。

○人間はいまだにたし算とかけ算の関係すらわかっていない!

たし算の世界とかけ算の世界は複雑に絡み合っていて、ABC予想とは、その関係性を表したもの。a+b=cの関係で、a*b*cを素因数分解して、べき乗を1にしたときの数をdとすると、cとdを比べたとき、ほとんどdが大きくなる(cが大きくなるのは有限個しかない)。

たし算とかけ算が混ざると難しいことに関しては、…例えばどれくらい素数があるのか、素数素数の間はどれくらい離れているのか、2を足したら素数になるのか(双子素数)…ABC予想とは、まさにこの類で、たし算の世界とかけ算の世界の関係を示しているから難しい、というところから話が始まり。

フレンケル教授が白熱教室で使っていた「学校で教わる数学は、完成図のあるパズルをとくようなもの」、「研究する数学は、完成図のないパズルをとくようなもの」という比喩を用いて、IUT理論は、本来は(異なる舞台にそれぞれいるので)ぴったりハマらないはずのパズルのピースを、別の舞台に行き来させることによって、ハメてしまおうというもの。ただし、舞台が違うので、共通していえることといえないことがあって、じゃあ舞台間で、どれくらい違うのか「その歪みや不定性を評価しようとしている」。例えば、日常生活における女優と舞台上の女優。同じ人なのに舞台では話しかけられないし、握手もできない。何が共通した性質で何が共通しない性質なのかと。

○異なる舞台を接続する通信手段として、モノではなく、対称性を用いる!

ここで、モノではなく対称性に注目して群の話を少々。モノには対称性という性質が備わっていて、三角形を120度回転させれば重なるし、1点を固定して折り返せばやっぱり重なる。モノに備わっている対称性は、例えば三角形ABCなら、そのまま、右120度回転、左120度回転、頂点Aで折り返し、頂点Bで折り返し、頂点Cで折り返しの6つに閉じており{e、σ、σ^2、τ、στ、σ^2τ}などで表現され。この対称性さえあればモノとしての三角形がなかったとしても、対称性から三角形を復元できるという発想。さらに、異なる舞台に送る対称性の情報が少ないとうまく復元できない(三角形は3点しかないのでもとのかたちに復元しにくい)が、複雑であればあるほどもとのモノに近い状態まで復元できる。IUT理論は、限られた通信手段を用いて計算方法を伝達しており。モノに備わっている対称性を分離、通信、復元することによって、たし算の舞台とかけ算の舞台でやりとりしている。専門的には遠アーベル幾何などいくつもの理論のうえに成り立っていて、実際には"それなりに高級"どころではない理論が展開されているものの、何がどれほど難しいのかなんとなくわかった気に。気持ちよくなっていたら、最後にこのアニメーションを見せられ
http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~motizuki/IUT-animation-Thm-A-black.wmv
…はい。なにもわかっていません。

よくわからないけど惹きつけられる人の魅力

自分で出した答えに自信を持つとともに自分だけで出した答えなんてたいしたことないという相反することを同時に思っている。どちらか一方のみが正しいというわけでなく、どちらも正しい。矛盾した状態が気持ちとしてはしっくりくる。論理的に考えることは整理するのには役に立つけど両義的な状態が現実には多い。なので、お客さんに提案をするときには当然、自分のいま時点のベストを尽くすのだけど、話していくうちにアイデアが育って変わることはある。そこを取り下げるやら言ってることが違うやらと現象だけを捉えられてしまうととても本意ではなくて自信はあるけど変化は受け入れるし、考え方が変わることは普通にある。ブレているわけでなく、現実を正しく認識するとしかるべき答えは導かれる。ビジネスではコミットメントという言葉にあるように、極めて合理的な条件が提示され、変えられない、守るべき約束ことを前提に進めることは多い。そんななかで、言い訳と思われないよう、まじめに考えて約束を守らないほうがよいということもある。結局は書面ではなくてこいつの言っていることが信用できるかみたいな話になってくるので、超法規的な合意をどれくらいできるか、それがその人の凄さであるように思う。立場が高くなればなるほど多くの人の合意形成が必要条件になる。それをも超えて納得させてしまう人は、いわゆるカリスマやらリーダーシップなどと表現される何かがある。

ずっと考えているわけではない

同じ空間・場所にいれば、相手のタイミングで話しかけられたりする。それをどこまで許容できるか。お互い相手のことを四六時中考えているわけではない。仕事であれば「でなければならない」という制約で(だからこそお互いに気持ちよく働ける空間は必要なのだが)協力しあう。一方で、プライベートはとくに義務的なものはないが「したい」という理由で一緒にいる。それぞれがそれぞれのペースで生活をし、たまたま時間があえば一緒に何かをする。それくらいの関係性で気軽に考えれば、付き合うとか結婚するとかのハードルはそれほど高くないようにも思う。自分のペースが大事なら相手に振り回されることを前提にそれを上回る何かを見いだせるか。関係をもてば、物理的なことだけでなく、精神的にも考えることは増える。ずっと熱い状態でいるのは疲れるので、冷めた状態で自然でいられる相手をみつけることが解のひとつかもしれない。ふたりは、気持ちが独立しているのはあたりまえで、どちらかが勝手に盛り上がってどちらかがちょっと冷静になると、すれ違う。長く一緒にいる人たちが無意識に同調するのは、そのほうが楽だから?ロマンチック過ぎる恋を想像し、幻想を現実と取り違えるとこじれる。ぜんぜん可愛くない服を自分のなかで可愛いと思って着ていたなぁとか思い出だすのは、特定の人にしかいだかない感情で、そうやって仕方がないなと包み込める相手はラインを超えている。

勝手に妄想力

想像でそっちの世界に入っているひとはそれが当たり前になっているので、外のひとからみるとプラスの方向に振れていて崇高なことのように思えるけど、なかのひとからみればそれが基準なので、むしろゼロ。現実はひとつだから、外からゼロにみえていてもなかではマイナスなわけで、なぜゼロにならないのかというマインドセットで考えられている。マイナスの場合は現実がおかしなことになっているので、すでに進行している。いまの世界で実現されているされていないに関わらず、世界の見え方・捉え方は人によって違う。そのあたりまえの基準の違いがいわゆる「ふつうでしょ」の感覚をつくりだしていてそれらがちょっとずつズレているから「えっ、そうなの?」というギャップがうまれる。なんかやってんなぁと上を見上げるより、なかに入ってしまってできてないけど、できたふうな思考に進めておいたほうがうまくいくような気がする。

抑圧が行動を決める

「仕事の熱量は怒り」ということを以前書いたが「革命の裏には抑圧がある」ということことを國分先生がおっしゃっていた。モチベーションの源泉は怒りだとすると「どう考えてもおかしい、歪んでいる」という不条理は、社会や権力などによる一方的な押しつけからきていて、それを是正しようとする心の動きなのかもしれない。革命というと仰々しいけど、既存の枠組みが壊されて再構築されるときは、みんなの怒りが溜まって爆発するというエネルギーがないと一気に進まない。そもそもそんなめんどくさいことをあえてやろうとするのだから、そうとう溜まっているのは想像に難くない。怒りの矛先がどこに向くかというのは、昨今では血を流さずに選挙で意思表示ができ、その意味でトランプは国民の怒りの象徴とも言える。ひとの行動は、こうした社会的なうねりだけでなく、個人レベルでもやっぱりこの「突き動かされる何か」が背景にあるように思う。下ネタだが、思春期のときに親の目を盗んでなんとかおっぱいを見ようとする努力は、明らかに溜まっている。わざわざ遠回りしてパンチラが見えそうなタイミングを狙って、すれすれのラインを攻める。いま思えばそこまでするかというくらいのことをしていた。大人になってその努力を怠るのはエネルギーが不足していることにほかならない。國分先生によれば「自分のなかにあるコナトゥス、必然性を発見してそれに従って生きていくというのが『よく生きる』ということ」。深く掘っていって自分の置かれた状況正しく認識できれば、怒りの矛先が決められるし、なぜ自分が怒っているのかわかる。どういうことに怒りを感じるのかがわかれば、同時に自分がとるべき行動が決まる。

「社会には当然様々な抑圧がある。で、みんな嫌だって思ってるけど、なんとなくやり過ごしている。でも、みんなで同時に「本当に嫌だよね」ってなったらそれはもう革命なんですよね。別に僕は「革命起きろ」とはまったく思っていないけど、しかし、革命的な何かが起きるべき時に、抑圧によってそれが抑え込まれているなら、それは何とかしなければいけないと思います。そうした抑圧は必ず鬱憤として溜まって、どこかにー多くの場合は、子どもや社会的弱者にー向けられることになるわけですから。」

出典)國分功一郎×二村ヒトシ「この本は、単なるモテ本ではない。実践的かつ、真面目な倫理学の本である。」より