なにそれ経営者のブログ

女の子は好き。でも結婚したくない。

まじめにこつこつ

結果を出さなければ意味がないというのは正論で疑う余地はないのだけど、だからと言って結果を出せば何をしてもいいという訳でもなく、結果を出さなかったから得るものは何もないという訳でもない。たぶん人の一生懸命さや真面目さみたいな雰囲気は伝わって、対人間の仕事をしている限り、そういうあたりまえのことをあたりまえにするという、言い古されたようなことを愚直に行なうということが意外と数字でシビアに評価されるような世界にこそ重要なんじゃないかとふと思った。結果が全てで、評価対象は最後だけだからそれ以外は無効、っていうのはやっぱり少々粗っぽい考え方かもしれない。やるべきことのレベルは高くキープしたまま、誠実な態度でふるまう。やって当たり前ということがハイレベルに共有されていれば、どれだけ真摯に向き合うか、という闘いになる。そう考えると態度や姿勢というファジーな指標にも意味がある。

あいまいなままに受け容れる(続き)

「禅」の冒頭、いきなりこうある。
「禅は、仏教の精神もしくは真髄を相伝するという仏教の一派であってその真髄とは、仏陀が成就した〈悟り〉を体験することにある。したがって禅は、仏陀がその永遠の遊行の間に説いた教示、もしくは説法にただ盲従することを拒む。言葉や文字は、仏教者の生活がそこから始まり、そこに終る目標を単に指し示すに過ぎないとする。」
方法は問わない。厳しい戒律が課される宗教とは対極にある。だからこそ、師の教えを聞いてもその意味がわからないうちは、わからない。永遠にわからないかもしれない。やりとりの会話を聞いても師匠は弟子の質問にまったく答えていなかったりするけど、それが意味のあるやりとりだという。あくまで本人が内面に深く入り込むことにより到達する。
禅の前提となる問題意識として「問いは対象を客観視して離れないと出てこないが、答えは離れた状態では出てこない。もう一度問いがうまれる前に戻らないとわからないが、戻ると問うことも答えることもできない。問いは知性的だが、答えは体験的である。」という問題がある。仏陀自身、この実在と真理の問題を解決すべく、過去の賢人に教えを乞うたが満足せず、肉体の欲求をおさえて心を浄化させようとしたがやっぱりだめで、自我がなくなったときに悟ったという。この消滅が「無為」であり「空」である。ちなみにこの状態を象徴的に表した書が「円相」で、チームラボさんが作品を作っていたり、村上隆さんが円相の個展を開かれていたりする。解釈はみるものにゆだねられる。
禅の別な属性として「禅は論理的分析や知的処理の支配は受けない。」「常に具体的な事実を扱い、一般論には流れない。」というものもある。現実の矛盾を容認する。Aとnot Aを同時に受け容れるという世界観。論理で考えてしまうと混乱の極みに陥る。ゆらゆらと揺れ動く人間の心理を真理として捕まえようとした過去の賢人達の思想。深過ぎてよくわからないのが正直なところだが、具体と現実にしか答えはない、というあたり、なんとなく共感できるところもある。

参考)
鈴木大拙「禅」

teamLab「円相」
https://www.teamlab.art/jp/w/enso/
村上隆 個展「円相」
http://gallery-kaikaikiki.com/2015/10/enso/

積極的購買

欲しいから買うという積極的購買欲と必要だから買うという消極的購買欲がある。後者はなくちゃいけないから買うけどできれば買いたくない。例えば、iPhoneのケーブルやビニール傘。欲しいときにないことが多くて毎回買う羽目になり。そんでもってちょっと高いから余計腹がたつ。
ずるいという言葉で形容されるばあいは欲しいが必要を超えていて、そんなんぜったいそうなるやん、という感じ。逆に必要性だけでつなぎとめて、ロックインするのは搾取。同じお金を払うのであれば「ずるいな〜」と言ってお金を使いたい。

ラストワンマイルの仕事

プロセスはほぼ最適化されるが、さいご行動するまでの意思決定は人の仕事として残りそうだねと。データの評価・分析まではAIが出してくるが、それを基にした意思決定と行動は人間がやらざるを得ない。判断→決定→行動までの距離は人によって違うものの、コンピュータが出してきたよくわからない結論をすっとそのまま受け容れてゴーサインを出すのに多少抵抗はある。正しいかもしれないけど、人間のキャパを超えてくる答えには違和感は残る。わかるんだけど違うんだよなぁと。そうしたときに最後のボタンを押せるか。人間の本能的な心理的抵抗を超えられるか。

レガシーにのせるかゼロからつくるか

楽天の個人口座を数年ぶりに開こうとしたら、口座番号やパスワードがわからず、結局本人確認できるまで使えずというめんどくさいことに。そして銀行から書留のハガキが送られてきて返信してくれという…LINE PayやApple Payなど電子決済サービスに関わっている方々は、「各国で法的な制約があり、特に日本でいま提供できているサービスは、我々が望んでいるインターフェースとは程遠い」と言っていたが、ユーザビリティの観点で本人確認のプロセスは象徴的。
ムカついたので調べたところ、そもそもKYC(know your customer)のルールは、2001年にBasel Committee on Banking Supervision(バーゼル銀行監督委員会)より公表された「Customer due diligence for banks」(銀行の顧客確認に関するガイダンス)がもととなっており、日本国内では「犯罪による収益の移転防止に関する法律(犯罪収益移転防止法)」という法律で、確かに氏名、住所、生年月日の確認が義務づけられていた。

第四条 …当該顧客等について、次の各号に掲げる事項の確認を行わなければならない。
一 本人特定事項(自然人にあっては氏名、住居(本邦内に住居を有しない外国人で政令で定めるものにあっては、主務省令で定める事項)及び生年月日をいい、法人にあっては名称及び本店又は主たる事務所の所在地をいう。以下同じ。)

電子決済や仮想通貨は、データ的には単なるトランザクションの入れ替えだから取引コストが安いことがひとつのメリットだが、イニシャルな取引コストは現行法がネックになっていまだ高いまま。手数料などランニングコストも、銀行のバックオフィス含め、既存のシステムを維持しようとすれば必要経費となってしまう。銀行は、電気、ガス、水道などで採用されている「総括原価方式」に近い原価計算をしていると言っていた人もいた。さきほどの「我々が望んでいるインターフェースとは程遠い」とおっしゃっていた業界の方々は、ほんとうにたいへんな作業をひとつひとつクリアしていっておられ、頭が下がる。イメージ的には周りにビルが乱立し、複雑になり過ぎている首都高をなんとかしようぜというチャレンジに近い。レガシーなうえにものを建てようとすると、新しい仕組みは前提が違うので当然フィットしない。ルールは変えていく必要があり、ルールをゼロからつくるのとまた違う壁がある。アフリカなど金融システムがそもそも整備されていない地域のほうがビットコインの普及は早い、というのもうなづける。

参考)金融庁 バーゼル銀行監督委員会「銀行の顧客確認に関するガイダンス」2001/10/4
http://www.fsa.go.jp/inter/bis/f-20011004-2.html

参考)犯罪による収益の移転防止に関する法律(犯罪収益移転防止法)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H19/H19HO022.html

あいまいなままに受け容れるということ

落合陽一さんのソフトバンクでの講演「デジタルネイチャー〜計算機多様性の世界へ〜」が素晴らしかった。
https://m.youtube.com/watch?v=_dUPcFfjnLE

両義的世界線(the world of ambiguity)、このあいまいな美的感覚は日本人はもともと持っていたというくだりは、自分としては西田幾多郎先生の「絶対矛盾的自己同一」とリンクした。この「絶対矛盾的自己同一」って概念はわかりにくくて自分がわかったかどうかもわからないのだけど…シンプルにいうと「Aとnot Aは共存する」という理解。これだとロジックが通らないから、混乱するけど、それは自分の考え方が近代から現代にアップデートされてないだけで、紀元前の世界ではヘラクレイトスが「相反するものの中に美しい調和がある」と言っていた。ところが、プラトンやらソクラテスやらがでてきて、数学主義、合理主義に傾倒して、当然、他者にわかりやすく示すためにはグレーな表現では伝わらないので、Aかnot Aかの二者択一で、極めてクリアに整理されることとなる。これが2000年くらい続いて、20世紀になってようやくハイデガー「真の存在はピュシス(自然)のなかにあった」とか言い出すわけで、日本人からすれば「だから言ってんじゃん最初から(反ギレ)」的な。幽玄や山紫水明なんかは、ほんとうに美しいと思うし、相対するものを共存させている世界観。これを美しいと思えることはこれからの多様な世界において間違いなく強みになる。さらにいえば、西田幾多郎鈴木大拙が同年代の友人関係であったというのが最大の驚きで、鈴木先生と言えば禅だけれどもあの「プレゼンテーションZEN」に代表されるような最近のスタートアップ界隈での考え方と共通するものがある。マインドフルネスなどという象徴的な言葉があるが「ロジックだけじゃダメだよね」と早々に気づいた人たちはすでにメソトロジーとして非合理性も組み込んでいる。自然への回帰というか、矛盾の容認というか、いわゆるlogosではなくphysisへの流れ。2000年のときを経てようやく。ヘラクレイトスさんなんかは「やっとかい!」ていう気持ちなのだろうか。Get Wild !

 

参考)池田義昭、福岡伸一福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅」

参考)カー・レイノルズ「プレゼンテーションZEN」

言い回し

文法的に正しくなくてもリズムや言い回しからそれを英語でも当然ブレイクすることがある、というのはなるほどなぁと。仕事ではほぼ日本語しか使わないが、文章を作るときにわかりやすさという観点と、リズムの心地よさという観点がある。正しく伝われば良いというときは、がちがちに固めるのではなくて形容詞の位置をニュアンスによって変えたり、助詞を変えたり省略したりする。書き言葉と話し言葉でもまた違うが。書き言葉は話し言葉に近づけると崩れる。ただ近づけることによる抵抗感は一昔前より減ってきた気がする。LINEなんかが普通に使われ始め、フランクな会話がデジタルに投影され、書くと話すの境界線はあいまいに。
おもしろい動画をみつけた。美女が「私とやらない?いまここで。」というと世の中のメンズはどう反応するかという社会実験。3割くらいは「いいね、やろう!」と即答してて、憧れる。自分なら「いくら?」と聞いてしまいそう。
would you maybe wanna have sex with me?
※このmaybe はなくてもいいけどあるほうがいいやすい。

ASKING 100 GUYS FOR SEX (SOCIAL EXPERIMENT)
https://youtu.be/QBtF3I7fDfU