なにそれ経営者のブログ

女の子は好き。でも結婚したくない。

評価の妥当性

賞与の季節になった。これだけやったからこれくらいの対価はもらっていいだろうという考え方はプロフェッショナルだし全く異論はない。だけど、そこをちゃんと考えて仕事をしている(もしくはできる)ひとはどれくらいいるのだろう。人事の評価はインセンティブや給料にはねるのだけど、そもそも会社からいくら払えるかみたいな総額を決めるってとこはえいやだとすると、パイの大きさ変えちゃえば各人の絶対値なんてどうとでもなる。
各自に払う額は、1)会社から払える額を決める。2)配分比率を決める。で決まるけど、お金の感じ方は人によって違う。なので、事前に双方で握っておいた目標設定への達成率を根拠にこれくらいですというとってつけたような説明をしている。正当な評価をすべく、評価基準の妥当性と評価の妥当性をよりどころとしている。それはそれで正しいしよい。
だけど…それだけではないものを感じていて。賞与は増やせば増やすだけ会社のお金は減る。でもなぜか第三者に経費として払うときとは違う気持ちになる。評価というより感謝に近い。お金でしか報いることはできないから評価という行為をしてお金を渡しているのだけど、単純なキャッシュアウトではない。投資とも違う。これぐらい出すからまだいてくれとかいま以上にがんばってくれとかいう気持ちでもない。ただあなた方のおかげでこのお金が作られたから分けましょうという仲間への還元。評価って感じではない。労使関係の欠如なのか。対外的にはシビアに価格交渉するけど、社内でそれをやってもと…そのエネルギーあるなら外に向けろよとも思ってしまう。

国民レベルで首脳会議ができるか問題

自分が「日本人だから」従軍慰安婦をどう思うかとか、過去の戦争で日本軍が拉致して酷い目にあったから謝れだとか、そういう質問をしてくる外人はどういう心境なのだろうか。「親が殺されたとか個人的な理由がある人ならまだわかるけど、政府や国のプロパガンダによって洗脳される人は愚かだ」と言っている人がいて同意。自分もどちらかといえば「だって関係ないやん過去の誰かのことなんか」と思うタイプなので個人として聞かれてもなんの感情もわかないしちゃんと考えたことがない。外にでたとき日本の歴史は知識として知っておくべきこととは思うものの、過去の過ちをいまでも怒っていてその国人間にぶつけるのは筋違いな気もする。日本という島国だからなのか。私を社会的、歴史的にどう位置付けているかによるのか。歴史のなかの私、みたいなところに鈍感なところは確かにある。直接的に危害が及ぶことがなかったというのもある。腹の底からほんとうにそう思って歴史に執着する心境が理解できない。国との距離感はあるのかもしれない。はたまたオーナーシップ問題か。自分は日本という国にうまれ、日本という国籍を持ちながら、とくに日本という思い入れがない。多国籍の社会で育てば自ずとそういうマインドになるのだろうか。

姿勢がいい

その業界のレジェンドと呼ばれる人は現役ではないので、過去の業績だけで尊敬することはあまりない。にもかかわらず、素晴らしいと思うときもあり、その条件は2つある。

ひとつは、ありがとうを言える人。直接関わりのない人間もちゃんとみてくれて、誰に対しても平等に振る舞い「ありがとう」と感謝の意を直接伝える。これだけで人格者だと思わせる。医者の評価は看護師が決めるというように、秘書や身内だけなく事務方としてかかわった人にも好かれる人はなにかもっている。あたりまえのことだけどポジションがあがったり評価があがったりすると自分に尽くしてくれる人への感謝のセンサーが鈍くなるひともいる。

それから立ち振る舞い。姿勢がいいとそれだけですばらしいひとだなと思わせる。何がそう感じさせるかはわからないけど、スピーチのときに背筋がぴんと伸びていてまっすぐにみている。見られているということを意識せずとも日ごろからそういう姿勢でいるのだろうか。とにかく話の中身より姿勢がとても印象に残っている。

評価はよほどのことがない限りカウンターパートを越えない

報告は事後的なものでなんのためにやるのかと思うことも多いけど、そのひとつの解は次のお金をつくるためでもある。正しいことをすれば正当な評価を得られるというのは、傲慢で。いいものをつくれば勝手に売れるというのに近い。こちらから働きかけないと動き出すことはない。そこまでやらなきゃいけないかと、評価をする側のことを意識するくらいがちょうどよい。よほどのことがない限り評価はカウンターパートを越えない。報告は正当な評価を得るために必要。なぜなら、たいていのひとは目の前の関心ごと、自分に直接的に関係することにしか興味がない。関心ごとは責任と権限によって決められ、それも誰から与えられたものに過ぎない。上司にいかにアピールするかは、無駄に思えるけど評判を広めて高めるためには必要な仕事ともいえる。

ない状態で最適化された世界である状態にどう変えていくか

すでに構築されたシステムのなかで現実は最適化されている。そこに新しいものを持ち込んで「いまよりよくなりますよ」といったところでない状態でできていたのだから、新しいものを取り込もうとするインセンティブははたらかない。たいてい(とくに仕事を流してやっているような人たちは)現状維持の抵抗力は強い。たしかによくなるかもしれないけどやろうとすることは過剰なサービスで押し売りになる。現状の延長線にあればまだ理解はされるかもしれないが、別の路線に乗り換えてくれとなるとますます障壁が高い。
一方で、ある状態を普通にしてしまえば、ないことをすっかり忘れてしまうので使い続けてもらえる。ある前提でものごとを考えるので、ないと文句を言われるような状況にすらなる。顧客はほんとに身勝手だ。ないと気にならないのにあると思われていると期待して文句をいう。例えば、空港にビジネスマンのためにコピー機を置いておけば使う人はいるかもしれないけど、故障したときそれを期待して重要な書類を印刷しようとしていたひととトラブルになる可能性はある。彼女がいればいたでむかつくことはあるけど、いないとそもそも期待しないので平穏に日常が過ぎていく。

どの状態を自分の平均値にするか。だったらやんなきゃいいというのと、だとしてもやりたいのせめぎあい。だめかもしれないけどやってみるという精神性。振れ幅をどうとらえるか。

戦略は必要ないけど必要ある

ドキュメンテーションは、生産的ではないと思っていたけど、自分の考えの整理と他人への共有のためには意味があるかもしれない。動けばそれでいいという考え方もある一方で、学習する組織ではないけど、動かした経験値を1人にとどめておくのはあまりにもったいない。他人をうまく巻き込んだほうが動かしやすくなるということもある。自分のなかでは当たり前だと思っていることを他人にも理解してもらうためには、言語化して説明できないといけない。中小企業は実行力がすべてなので、何十年と続いている企業もなぜできてきたのかわからないけど当たり前にできているということが多い。いざ話を聞いてみると社長でさえ答えられないこともある。自社製品で20年間販売している製品の変遷をはじめて振り返ったけどめちゃくちゃ学ぶことかあると言っていたりする。逆に言えばいちいち振り返らなくても前には進めるわけで走っている最中にはそんな余裕すらなかったのかもしれない。きれいな戦略はないまま目の前の課題を1つ1つ乗り越えて持続してきた歴史。
まわりを動かして実行するためには、お金が必要でそのために事業戦略を描いてピッチしてお金を集め。いわゆるスタートアップの人たちはそういう能力に最初からたけていてプロダクトがないのに大きなお金を引っ張ることができる。しかしながら個人的に最も重要なのは手触り感や人の温度感だと思うわけで(池井戸潤的世界観)、ベテランの中小企業の経営者たちが少し距離を置いてみているのはそんなことしなくても結果を出してきた実績と経験があるからかもしれない。「それぐらいできないとお金は払われない」vs 「そんなことしなくても結果は出せたという実績」。この構造。自分はどちらかと言えばベンチャーに属するけどもマインド的には老舗中小的で「実績がないくせにそんなことしなくてもいい」派。人間の暖かみを大事にしたい。

 

ブラジルの真価

ハリルホジッチの「後半だけみれば負けてない」ってコメントは負け惜しみには聞こえなかったし内容は点差ほど離れてなかったようにも思う。大迫にしろ槙野にしろ乾にしろ杉本にしろ(酒井はネイマールがうま過ぎるせいでいなされてたけど)随所のワンプレーで勝っていたところはあって、決してひるむことなく各々が今の実力でどこまで通用するかみたいなのを楽しんでいたようにもみえた。日本の選手もボールの扱いはうまかった。でもそれ以上にブラジルの選手のほうがうまかった。うまさの差は素人でもわかる。技術的に優れているというよりむしろボールの持ち方、パスを出すタイミング、スピード…どれをとってもリズミカル。ボールをとりにいったり身体をぶつけたりするところをするりとかわされる。ファールする気はないのに止めようとすると笛を吹かれる歯がゆさ。マルセロなんてそうとうフィジカル強いくせにしなやかでいい感じに力が抜けていた。

ブラジルはアジリティーとかスピードとかそういう要素的な分析からは出てこないイメージをみんなもっていて、ゲームの中で作り出される瞬間的な状況において、ベストなプレーを意識せずともできているかのような。動物的。ボールを止めるとか蹴るとか個人技を切り出してトレーニングするだけでは決して身につかないであろうセンス。サッカーが文化として、生活の一部としてなじんでいるからこそ醸し出される美しさなのか。チッチ監督は潜在的に持っている個人のイメージをチームの規律にうまく馴染ませる天才かもしれない。確かに今回のブラジルチームは強い。バルサのサッカーかと思った。
現代サッカーは狭いスペースで激しく攻防してとにかく速い。攻守の交代も目まぐるしい。日本のパススピードもダイレクトプレーの連動もブラジルにつられていつもより速かった。世界のレベルはそれぞれの選手はリーグ戦から肌で感じている。あとは代表に戻ったときチームとしてどう勝つか。代表の監督が描くゲームプランをどう実行するか。日本チームもセットプレーだけではなくて流れのなかでの輝きを期待したい。日本特有のやり方で。

追伸)長友選手、試合後のツイートから。選手からみた感覚の違い。とても興味深い。

「やれ!とやらされてきた身体と思考、サッカーを遊び感覚で楽しんできた身体と思考では積み重ねると大きな違いがでる。ブラジル代表の選手はゴツいんだけど、身体グニャグニャで躍動感がある。日本の選手とは特に上半身の動きが違う。足だけで踏ん張って動く身体、上半身と連動して動く身体。差は歴然」

「マルセロ別次元やった。イニエスタサイドバックしてるみたいな感じ。チームとしてプレッシャーいけてると思っても、簡単に剥がされる。涼しい顔して。学ばされるなー。」