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なにそれ経営者のブログ

女の子は好き。でも結婚したくない。

ステップアップソリューションの陳腐化

ビジネスは基本的には問題解決だとすると、階段を昇る作業に似ている。いま一階にいたとして二階にたどり着くまでには何段も小さな段差を超える必要があり。人を動かす側は、段差をそのひとに見合った登れる高さに調整して「さあどうぞ」とお膳立てするのがミッションか。ひとによっては自分で階段をみつけて勝手に昇るし、優秀なやつはエレベーターで楽な方法で昇るもしれない。でも大半は二階が果てしない高さだと思っていて、最初の一歩すら踏み出せないから、その道筋を示してやる必要がある。また、多段階に分解して、やるべきことを示したとしても、疲れるから昇らないとかそもそもなんで昇らなきゃいけないのかなどと簡単には動かない。というようなことを含め、どうすれば二階に来てくれるかをいろいろと考えるのが動かす側のミッション。力技でそいつを背負って自分と一緒に二階まで運び込むくらいしないと動かないことさえある。実際には階段というような汎用的なソリューションよりも、その人にあった個別具体的なソリューションのほうが求められている。二階に来るようお願いする側が「階段昇って来てください」と提案しても、いやいやそれをしてくれないから困っているんですという背景からコンサルティングがはじまることもある。階段がない建物は、階段をつくってまずやる気のあるやつが昇るよう建設することが付加価値になっていたけど、階段がすでにある建物でまだ一階にいるとなるとそれはそれで別の理由があるはずだからスラロームにするとか階段より楽に昇れる手段を考えないと付加価値にならない。見方を変えれば、お客さんのお客さんが怠惰であるほどコンサルティングしがいがある。何をすべきかはわかりきっていて、どのようにしたのか、という社内マネジメントの改善。whatでなくhowのほう。

フローで捉える(続き)

キャッシュをみたときに利益が出ているのかあやしいという感覚は、利益は契約を終えたときに手元に残るお金だという感覚といま現預金としてみえているお金とのギャップによるものだと思う。会社の財布はひとつなので、いまみえている数値はひとつしかなく、プロジェクト単体での利益はバーチャルな数値でしかなく(実際にはリアルな数値だけど、残高としてみえるタイミングがないという意味で)リアルに感じ取りにくくなる。リアルは目の前のカネだという思いから抜け切れていないだけかもしれないが。
ところで、案件がほとんどなかった時期はこのお金はこのお客さんからもらってこの支払いにあてがうみたいな紐付けができていたけど、お金に色はついていないので、だんだん総体としてみるようになる。そもそもお金はそのためにあるのであって、物々交換にはなく価値を保存できるし、物に介在することでぜんぜん関係ないものどうしをつなぐことができるようになった。そういえば、ネットでお金を介在しないタイムバンキングが話題になっていたけど、これはこれで原点回帰というか、時間をお金を介して強引にとめておくのではなく、サービスや物どうしで自然につないでいるという点がおもしろい。物々交換の時代に、物を必要とするひとどうしが互いにアンマッチでつながれなかったからお金ができたのだとすると、逆にいうとネットなどでつながれればお金は必要なくなる。
脳のキャパが並なぼくみたいな人間は複数のことを同時認識することができないので、案件が増えてくると認識する量を減らすしかなく、入ってくるお金と出ていくお金をブロックで捉えるようになった。心理学のスービタイゼイションではないが、四個以上になりそうならまとめて、固定費として出ているお金はだいたいこれくらいみたいに捉えておけばキャッシュアウトを契約後のキャッシュインされた時点の現預金に足し戻せば確かに利益がでているとわかる。

参考)タイムバンキング
https://m.japan.cnet.com/story/35098092/

国には金がある(続き)

事業を委託される民間事業者はどこをみるべきか。事業は当然政策とリンクしているので、その目指している方向性などを理解し、いわゆる一丁目一番地がどこかを押さえる必要があるが、問題は事業そのものがいまいちだったとき。予算は執行される前提でつくられるので、いわゆる無駄金として税金が使われることになる。受託者は少なくとも儲かるが、社会的な損失になりかねない。特に経産省など産業振興系の政策に関していえば、なぜ国や自治体が予算を使ってまでやるのか。市場原理に任せればいいのではという疑問もある。一方で、官でないとできないこともあるのも事実。社会を大きく動かそうとしたときには民間だけではできない。ロビー活動が存在していることからもわかるように、政策によっては業界が変わる。国は敵だとみなすのも、味方として取り込もうとするのも、距離を置いて静観するのも自由だけど、政策で市場原理を歪めることができる。規制もさることながら、なにせ莫大な予算をもっている。伸ばしたい分野にファイナンスできる。例えば航空、宇宙、医療などは先端産業として投資(?)されている。不遇の天才みたいなやつはいる。チャンスがなかっただけで機会が提供されればそれをうまく使って自力で成長する企業はいる。やる気のない企業にお金をつっこむのはよくないけど、リスクをとって伸びようとしているマッチョな企業にうまく金を引っ張ってきて国にバックアップさせるのもありだと思う。利害関係はあれ、同じ方向に進むのであれば、VCや金融機関とはまた違った観点でできることがある。

国には金がある

国や自治体の担当者は予算を取りにいく生き物である。予算を獲得し、それを原資に事業を執行をする。予算承認を行う政治家は各分野の専門的なことは詳しくないため、優秀な担当者が議会で承認されそうなロジックをせっせとつくり、それが政策となる。国であれば霞ヶ関勤務の官僚と呼ばれる人たちであり、地方自治体であれば県庁や市役所の人たちである。そして、政策はブレイクダウンされ施策となり、事業に落とし込まれ予算が配分される。もちろん、政策は官公庁や地方自治体だけでつくれるものではなく(最終的な責任はその首長が負うが)シンクタンクと呼ばれる民間企業や有識者などもその形成に加わることがある。有識者委員会のような形式で各分野のプロから話を聞くこともある。事業を実施するにあたっては、官だけでは実施できないものもあり、公募などで官から委託を受けた民間事業者が実施することもある。事業の予算で補助金などがつくられることもある。

フローで捉えることの難しさ

1億を考えていると数百万が小さくみえるけど、残高が数百万になると百万でもかなりシビアな金額になる。千円で1週間乗り切ろうとしたときに、食事の十円単位でシビアになるのに似ている。警戒水域は、出ていく量と入ってくる量の相対で決まる。ところで運転資金でいつまでひやしやしないといけないのか。それとも拡大し続けているからこその苦しみか。利益率のいい仕事をいくらしたところて回せなければ終わる。大型案件後払い一括とかより少額でもいいから毎月入ってくるほうが安定する。支払タイミングのちょっとした違いなだけで、良くも悪くもなるからこわい。それと、プロジェクトベースでみた感じとキャッシュの感じはズレることがあって、いまの現預金がいつ時点の何なのかがみえにくく。単体として黒なら足しても黒でしょというのは自明だけど時間軸がズレるかつ複数が同時進行すると全体としてみてしまい、個別事象でほんとにどんだけ利益出しているのかと疑ってしまう。バックオフィスの経費なんかをつんだところで出ていくもんは出ていくから一率で何パーみたいな一般管理費も信用できない。いまの数字はひとつだからそれが一番重要なんだけど瞬間のきりとりでしかない。

追いつかないと追い越せない

思想は引き継がれない。なぜそれが作られたかという本質的なところは、外側の規制や制度、仕組みができたあとは薄まっていく。自らが設計し最先端を走り続けていればその基本的な思想がありありとわかるが、汎用性をもち、一般化してくるとわかりやすい面だけが強調され、外からその一面だけを捉えると本質を見失う。いわゆる思想が「形骸化」する。
水野氏の「法のデザイン」を読んで"law lag"(法律の遅れ)という言葉を知った。社会が発展して従来の法律ではカバーしきれなくなる現象を指すのだそう。「法という性質上、原則として現実の後追いしかできない」。だからこそ、自分たちが法律を追い越し、その余白を解釈したり、グレーな部分をシロクロはっきりさせるルールを制定したり、いわゆる「リーガルデザイン」が必要だと述べている。

『そもそも契約における三大原則の1つである契約自由の原則は、まさしくリーガルデザインそのものである。契約自由の原則とは、私人は、公序良俗に反しない限り、国家が決定する法律に縛られず、自由に双方の合意を実現してよい、という民法の大原則である。しかし、現代においては大企業が作成した契約書の雛形や一方的に定められた利用規約、大家が作成した定型的な賃貸借契約書に一方的にサインさせられるケースがほとんどである。その結果、契約と言うものがそもそも当事者双方の行為を実現していくために忠誠を重ねていく、合意形成やコミニュケーションのための手段であると言う認識すら有していない一般市民がなんと多いことか。すなわち、本来大原則であるはずの契約自由の原則は形骸化し、私たちは契約が自由にデザインできるものであることを忘却してしまっている。その意味では、リーガルデザインの思想は、現在世界的に蔓延している、企業が一方的に突きつけてくる規約・約款やシュリンクラップ・クリックラップ契約と言う悪しき慣習から私たちを解き放つと言う要素もある。』

言われてみればもっとな指摘であり自分の感覚としてもとてもしっくりくる。しかしながら、そもそもこちら側がやりたいことありきで、法律をデザインしていく行為はかなりハイレベルである。まずは法律に追いつかないと議論することすらできない。そして追いついて追い越していかないと、法律は重荷にしかならない。
与えられたルールの範囲内でプレーすることは悪いことではないけれど、そこには創造性を入れられる余地が少なくおもしろくない。ネガティヴに捉えれば、ルールにフィットさせるテクニックで稼ぐのか?という思考にもおちいる。現にぼくはいまそこで思考停止してしまっているように思う。誰かが作った面倒なルールに適合させることがめんどくさくて、形式主義やら前例主義やらという批判をしてストレスをためている。
水野氏はルールを「超えていく」というマインドが大切であると主張されており、この考え方に救われた。何度も読み返したい。

 

参考)水野祐「法のデザイン」

ナンパも婚活

婚活と出会い系は線引きできない。婚活というと、どうもクリーンなイメージを恣意的に作り出して出会い系とは違いますよ、軽い出会いではないですよ感を出している印象をもつが、結婚という法的手続きをしたいというのがミニマムな要請であって、国から与えられた法的要件に適合させるためのパートナーを探す行為というのがゴールであろう。そこに恋がしたいだの理想の相手だのごちゃごちゃきれいごとをのせるから、本質を見失う。出会い系でもナンパでも主たる目的がセックスだとしても男女が出会うためのプラットフォーム、あるいは、方法論という意味では変わらない。しかも結婚してから子供を産むから結果的にセックスだってするじゃねーか。むらむらしてヤッたかたか子供が欲しくてヤッたかなんてのは関係ない。やろうとしていることは一緒だろ。マーケティングされた言葉でカモフラージュされている。出会い系もナンパもそれも含めて広く婚活ですと捉えたほうが自然だと思う。