なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

人を変える力

キングダムを読破した。泣くことを期待して読んだマンガで本当に泣いたのはいつぶりだろう。描かれている世界が壮大で登場人物それぞれにドラマがある。誰目線で世界を眺められるか、誰に感情移入するかは、いまの自分のあり方をとてもよくあらわしているけど、単純にやっぱり信や政の目線でみてしまった。これまで誰も成し遂げられなかった夢をかかげ、それを心から信じ、大人たちに挑んでいく姿はふるえるものがあるし、お手本となるかっこいい大人たちがいるところにもしびれた。経験や実力でかなわない大人たちがいる。私欲や私情で違う方向にもっていこうとするやつらもいる。それでもやらなければならない。超えていかなくちゃいけない。王騎将軍にはもはや憧れしかなく。強き者が強き者を倒して時代をつくるといって最期まで貫き通したあのかっこよさはなんなのか。これが将軍の見ている景色だと、王輝の馬に乗せられてみた景色。桓騎のオトナの戦いといってみせつけられたなんでもありだけど結果的に完全勝利したやり方。これはまさに義務論と帰結主義の対立で、目的達成のためとはいえやっちゃいけないことがあるとすればそのラインはどこか。みえている人間とみえていない人間。同時期に生きていないとどちらが強いか証明しようがないというのは真理だけど、誰も成し遂げられなかった偉業を達成すればそいつが一番強いというのもこれまた真理である。信は相手が強ければ強いほど実力以上の力を発揮し、ことごとく結果をだしでチャンスをモノにしている。政は最初から中華統一を信じきっていてブレない。上の世代からまだ未熟だけどこいつを引き上げようと思ってもらえたり、仲間からこの人のためなら死ねると思われたりする素質を2人は持っている。人間の本質とは光…政が呂不韋との会談でそう言い放った。政が紫夏に救われたときにみたものでもあるし、羌瘣が深い闇から戻る道筋でも光がでてくる。光は人の生き様を変えるのか。

メッセージ性

とある社長のメールがとても情熱的で、自分の形式的なメールと比べてしまった。メールはいかにはやく簡潔に処理するかという思考に偏っていたのでそうだよなぁと。相手によって多少は表現を変えるものの、基本的にはいちいちくだらない枕言葉をつけがちで、でもそんなのは空虚なポーズに過ぎない。美しい言い回しを完璧に使いこなしたところでなんらインパクトはない。むしろ自分の言葉でちゃんと語ったほうがよく。たとえ読まれなかったとしても少なくとも自分に嘘はついていない。リーダーたる者、自分で考えることも大事だけど人をやる気にさせるのも仕事かと。いろいろなスタイルはあれど、誰かに支えられ、応援されたほうが強いに決まっている。投資判断は、事業にかける熱量があるかを基準にしていると言っていた投資家もいた。真っ直ぐな思いは刺さる。安っぽいビジネス書みたいになってしまった。普遍的なことは普遍だから普遍的価値を維持している。

ラ・ラ・ランドは選択論だ

ラ・ラ・ランドは詰まるところ選択論だと思いました。ピークでモノにできるか。あのときああすればみたいな後悔は振り返ればいくらでもあって、過去を比べればあのときが最高だったということはわかりますが、現在進行形でいまがピークであるということはわかりません。この先もっといいことがあるかもしれないですし、いまはそのタイミングではないと思って迷うことのほうが普通です。そして多くの人は最高の瞬間に決めきることができず、結局タイミングを逃してしまいます。株式市場で最高値で売りぬくことができないのに似ています。
「恋は自分の思い通りにはいかないんだよ」というメッセージが多くの人の共感を得たのではないでしょうか。好きなのに別れる。元カレを忘れられない。だけど幸せな人生はある。いまが幸せだと信じて生きていくしかない。
夢を追うことと現実をみることの間で2人はすれ違い、揺れ動かされます。相手のことを慮って自分の夢を諦めても、もはや相手はそこに期待していなかったというように、同じことをしても相手のメンタリティによって響くこともあるし響かないこともあります。ベストな選択をしてもそのタイミングによっては全く逆の結論になることがある。結婚はタイミングだと言いますが、2人の人生が独立に進んでいくなかでその歩調を合わせるのは至難の技です。
全体を通して、映像はカラフルでみんなで踊り出してしまうくらいアップテンポな曲が多くてファッションもドレッシーでおしゃれで華々しい世界が描かれているのですが、見終わったあとにもどかしさが残るのは、クリアなハッピーエンディングではなく、最愛の人とは結婚できないという悲しさからでしょうか。人生は悲しくて切なくて重たい。ミアとセバスチャンが出会ったときに流れていた曲(あとで調べたら、曲名は"Mia & Sebastian’s Theme"だそう)の暗さが象徴的で、ラストで走馬灯のように流れるシーンでもこの曲がキーになっています。いきなり踊り出すという世界観にはうまく没入できませんでしたが、この曲は好きです。

仕事と事業(続き)

創造性に値段はない。アイデアやコンセプトが仕事を「つくる」原液みたいなもので、これらは「稼ぐ」こととは独立で存在している。稼ぐという話になると、うまくまわすことさえできれば持続するため、事業として成立する。うまくまわす方法は基本的には2つしかないない。時間軸をズラす(借入をして今は赤字だけど将来黒字)か、複数の仕事で融通し合う(赤字事業に黒字事業から補填する)か。
イデアやコンセプトは人間がもともと持っているもので、紀元前の古代ギリシアアリストテレスなんかの時代から言語や論理のフレームに落とし込もうとして自然科学が発展してきた。一方で、事業のようなビジネス寄りの仕組みがちゃんとつくられたのは、それこそ18世紀の産業革命あたりで科学よりぜんぜん歴史は浅い。そもそも科学と事業(資本主義)を無理やり繋いだのだから、創造性と金銭的な指標は関係ないほうがストンとおちる。
アカデミアの文脈で体系化された知識や経験を実社会に応用してお金に換える方法(お金を稼ぐことを目的として事業をおこなうわけではない)が、ビジネスのオーソドックスなやり方で、製造業でいえば、研究開発から企画につなぐ、あるいは、金融業でいえば、偏微分方程式からオプション価格が決める、ということ。科学の最先端はそれぞれが専門的過ぎてもはや直感では理解できないため、いくらどこに投資すべきかはわからない(投資を職業の人にしているひとたちがいるくらいでこれまた専門性が求められる)。そして、世の中には稼ぐという専門性に特化したひと、いわゆるプロの経営者もいる。

つきあいかた

非上場企業の資金繰りはスーパーコンフィデンシャルですよ。言えるわけないですやんか。なのでメインバンクは慎重に決めざるを得ません。カネの流れが全部筒抜けになって性癖がバレるってことですからね。銀行とセックスしているようなもんです。丸裸にされてすべてお見通しよ♡って感じ。舐めまわされるのがいやでたまに本命をつくらずに何個も口座つくって浮気してるようなやついますけど、やっぱり信用されませんよね。全部みせてくれないってことは体を預けられないってことだから、あっちもそれなりの距離感での付き合いになります。

一方で、融資じゃなくて投資をしてくれるひとたちはオトナですよね。付き合い方がドライで日常的に介在してくるわけではない。出資額以上の追求はしてこないので定期的にヤらせてくれっていうだけ。ですので、太いお客さんにはたくさん、細いお客さんには少し、というように愛してくれている大きさによっても態度をかえています。愛にも重みがありますから。

仕事と事業

仕事を創り出す能力と実行する能力は違う。ゴルゴ31は依頼者との約束は必ず守り、完璧に「仕事」をするためプロフェッショナルの例えとして出されることがあるが、ここでの「仕事」は依頼人ありき。依頼が出ればめちゃくちゃ完璧にやり遂げることができる(その過程で創意工夫はもちろん必要だ)が、依頼をつくるほうもこれまた重要な「仕事」。仕事=つくる+実行する と分解すれば、多くのひとは「実行する」仕事をしていて、つくってない。「つくる」ということに関して、自分のイメージをうまく伝えられないが、単にこれまでにない何かをつくる、とかそんなレベルではなく、新しい発想や着眼点が含まれていること(つまり、やっていることは同じことでも考え方や意味づけが新しいこともあり得る)、世の中のひとが気がついていなかったけど言われてみればあたりまえのこと、なぜそれがよいのかわからないけど瞬時によいものだと感じられること、などがその条件としてあるように思う。以下でいうところのcreateの2番目の意味に近い。

create
1. to make something exist that did not exist before
2. to invent or design something

invent
1. to make, design, or think of a new type of thing

design
1. to make a drawing or plan of something that will be made or built
2. to plan or develop something for a specific purpose

ちなみに、稼ぐ能力もまた違う。事業=Σ(仕事)とすると、事業をコントロールする能力は、仕事で求められる能力とは全く別に感じられる。資本主義のゲームでは、仕事に対して値段をつけ、お金という共通項を用いて良し悪しを測っているけどお金の大きさと本質的な仕事の良し悪しとはなんら関係がない。払う人と払われる人のバランスでお金は動いているので、そこに道徳的な観点は介在しない。それがお金という指標の限界。しょぼい仕事でもうまくやれば稼げるし、素晴らしい仕事でも赤字のことはある。仕事をがんがん創り出してまわすことができても、事業にする、要はキャッシュインをキャッシュアウトより大きくすることを目的に、そのオペレーションを考えるのは、それはそれで違う能力。など考えていたら、タイムリーにこんなTweetが流れていた。botだけど。

「お金を儲けるっていうことを考えた瞬間に、それはもう20世紀的発想で、リーマン・ブラザーズと一緒なんだよ。」by 高城剛

矛盾をうけいれる

人間は複雑な動きをきちんと記憶するときには、インプットとアウトプットを同時に記憶しているらしい。人間は、AとNOT Aを同時に受け入れることができる。理性で考えて問題を整理すると、こちらをたてればあちらが立たず、あちらをたてればこちらがたたずのような、いわゆるコンフリクトがおきるが、人間が絡んでいる問題において、論理という方法論ほど無力なものはない。その枠をはみだせないと永遠に解決できない。人間は、他者と共有するために言葉というツールを使って表現し、秩序だったルールを仮定し、そのルールに基づいて意思疎通をしているけど、それは極めて表層的なつながりであり、ほんとうの意味で相手の思いは理解できていないように思う。私の尊敬する独立数学者の森田さんは「わかるということはつくるということだ」と言っている。そのとおりだと思う。そういえば、高校のときの担任の安村先生は「人の気持ちはわかり得ない」と言っていた。たしか、他人は自分ではないからいくらわかったつもりになっても知ることができない、という主旨だったと記憶している。いかにも慶応の数学科出身ぽい発言なのだけど、いまでも覚えているくらいだから高校生のぼくにとってかなり衝撃的な言葉だった。
生きていると「あってるし正しいけどなんか違うんだよなぁ」ということがたまにある。ちょっとした違和感は敏感に感じ取ったほうがよい。だいいち意識して感じ取れていることのほうが少ないのだから、違和感があるということはそれ以上にみえないネガティブなことがたくさんあるかもしれない。正しいからという理由で人間は行動に結びつかないし、それで行動したとしてもやっぱり軽薄にみえてしまう。営業がMBAの文脈で語られないのは興味深い。フィリップ・デフヴス・ブロートンは「ビジネススクールで終身教授になろうと思えば、特定の学術雑誌に論文を発表しなければならないが、そうした雑誌はみな財務やマーケティングや戦略やオペレーションに目が向いていて、営業についての論文に割く誌面がないか、このテーマを真剣に取り上げようとはしない。そんな本質的とはまったく関わりのない理由で、営業は経営学のなかでつまはじきにされている」と言っていた。売りをたてるのがもっとも大事なはずなのに。人が動くのに理由はない。理由がないから再現性がない。再現性がないから学術として成立しにくい。たいてい人間なんてそんなふかく考えていないし(関係ないけど、そうだ京都行こう、というJRのコピーは秀逸だ)、考えたところで正しさに確信が持てない。あたかもそれっぽい理由付けをすることを仕事にしているコンサルタントが流行った時期もある。若手でもロジックに強ければバリュー出せます的な。そんなことは誰だって考えているしそうじゃないから困ってんだよこっちは、という経営者は多いはず。答えが欲しいわけではない。もっと柔らかいものを求めている。腹を据えるための理由付けが欲しくて、動かせればなんだってよい。下世話な話、女をあてがって揺さぶるんだって構わない。山に登るとき、ルートAだろうが、ルートBだろうがルートCだろうが、すべて共存できて、どのルートを選ぶかなんてことに必然性はないし、すべてが正しい。すべてが正しいし、ルートに優劣なんてなく、選ぶことの意味はあまりない。