なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

よくわからないもの

よくわからないものをなぜわざわざ観に行くのか、ていうのを聞かれることがあるけど、いいと思ったからというのがまずあって(そういう場合はたいてい行かないという選択肢はその時点でなくなる)、ちゃんと説明すると、なぜいいと思ったのか確かめたい、ほんとにいいものか確かめたい、ということに加えて、知らなかった感情が呼び起こされることも期待してたりする。人間の感情は結構繊細で、水の一滴や髪の毛一本から違和感を感じ取ることができる。なので、ホンモノをみると、そこでしか立ちあがらない何かを感じ取ることができると信じている。逆にいろいろ調べてしまってからいくと、自分の持っている知識とつなごうとしてしまって、どこまで先入観をなくして感じとれるかというたたかいにもなるので、そこにいながら心ここに在らずのようなよろしくない状態にならないよう気をつける必要はあるが。そういえばフォトジェニックなんてのはまさにそれで、リアルに感じとれるはずの感情を捨てているようでぼくはあまり好きではない。

大きさ

自分が体感・経験したものと情報として知り得たものとをわけるもののひとつに「大きさ」があると思う。例えば、飛行機。飛行機は頭のなかで簡単にイメージすることはできるけど、そこに大きさという概念は含まれていない。実際に飛行機をみるとバカでかい鉄の塊が存在していて、圧倒的大きさにビビる。空を飛んでいる小さな乗り物としての印象が強くて、普通に考えれば遠距離であの大きさなら、近くでみればでかいに決まっているのだけど、そこには思考が及ばない。間接的な情報で定着してできあがったとすると「大きさ」が抜け落ちる。芸能人が実際にみたらすごく背が小さかったというたぐいもおなじ。スマホや画面ではフレームが変わらないので、そのもののカタチは残るけど、知っているけど行ったことのない、例えばグラドキャニオンなんかもそうだと思う。ナマでみないと感じとれない情報。小さいころ、耳を切り落としたゴッホの炎の自画像が好きで美術館にくるということで観に行ったことがあったけど、あまりの小ささに驚いた。巨大なものとして印象付けられていたようだ。著明な先生なんかもそう。実績が凄すぎて勝手にイメージを膨らませて存在感にまどわされて身体の大きさまでデカくして構えてしまうことがあるけど、会って話をすると、謙虚で小さなオッさんだったなんてことも。小さいころ凄かった人に大人になって再開してあれこんなに小さかったっけと思うのも、想像でつくりあげられた存在感の影響。大きさから得られる情報は、そのものを構成するアイデンティティのひとつで、大きさも含めて理解することがちゃんとした情報として定着させるために必要なことと思う。最近ではVRなんてのもあるけど、まだまだ自分の目でみて感じたことのインパクトのほうが強い。

 

懐に飛び込む

自分にとって不利なことをあえて言うのは、距離を縮めるうえでは有効だと思う。例えば、女の子と飲んでてお持ち帰りしたい場合には、飲んでるときから下心をバラす。2軒目どうする?ってなったときは、高級ホテルで雰囲気の良さそうなバーを提案して「酔っ払ってここのホテルに連れ込もうっていう作戦だよ」→「それ最初から言っちゃダメでしょ」という流れで盛り上げる。おそらくその日は成功しないけど、少なくとも「その気がある」ということを間接的に伝えることができるので、次会ったとき「もしかしてこのひと本気なのかな?」と気にかけてもらえればよく。まんざらでもない場合には、酔った勢いで流れに身を任せちゃおっかなぁ〜♡となって(気があったとしても女子は自分から言い出しにくいもの)ほんとうに持ち帰ることができる。さらにそこで最後までしないというのも戦略によってはあり得る。とくに遊びと割り切っている場合には、逆に「意外と硬派なひとなんだな」と思わせる作戦でキスとかする程度でそれ以上は触れない。…ていうここまでの話もすべて話すとあーだこーだ言ってくるからそれはそれで楽しい。大人な女性は、いろいろと経験があるから、おれはこういうスタイルだよっていう手の内を見せることで盛り上がり。口説くときはそもそもセックスがしたいわけじゃなく、男と女のそういうゲームをしたいだけ。

ハイレベルな戦いはプロアマ関係ない

高校野球の季節になった。レベルの高さと感動の大きさは関係ない。地方大会の1回戦でヘタクソなプレーでも、チアリーダーがぜんぜん可愛いくなくても、みていて同じように感動するし、ドラマがある。彼らは世界と戦うわけじゃないし、甲子園にもおそらく出られないけど、いまここでやっている1回戦にはとてつもなく大きな意味があって、全力を尽くして戦うことに心が揺さぶられる。感動は、達成したい目標と自分たちのレベルの差によってうまれる。ハイレベルなプレーは上限がなく、トップオブトップは一握りで、多くの人の注目を集めるけど、大多数の人はそこにたどり着けなくて、それでもやらなくちゃいけないから、やれることをやるしかない。ローカルのリアルはグローバルには関係なく活き活きと存在している。親が、どんな世界になろうともこの子を守るという本能はまさに目の前の現実。反体制はロックだし反骨精神への憧れからか、自分はどちらかといえば、弱小かもしれないけどローカルに寄り添いたい。

考える時間

1日のうちクリエイティブな時間はどれくらいあるのか。メールを処理することは仕事なのか。アウトプットを短期間に出すことは生産性が高いと言えるけど、例えば5分以内にメール返信することはほんとに生産性に貢献しているのか。意思決定は簡単にできるが、そのあと動かすことを考えると、ステークホルダーを巻き込みながら決めたほうがよいこともある。思いを浸透させずにトップダウンで落とすと、意思決定後の調整コストが高くなって現場が混乱し思っていたほど軌道にのらず、結果として調整してから意思決定したほうが早かったということもありえる。つまり、単純に早けりゃいいとも限らない。
ディープ・ワーク(*)という考え方がある。青フラの井上社長は1年のうちある数ヶ月は会社を社員に任せて、インプット期間としてこもることで有名だ。もともと、社長がいなくても会社はまわらないといけない、会社にいると雑務が多くて、クリエイティブなことを考えるには向かない、という思いから始めたそう。また、海外出張の帰りの飛行機は、誰にも邪魔されず、かつ、刺激を受けまくっているので、最もクリエイティブな時間だ、ともおっしゃっていた。ちなみに、井上社長はMITのカルが「Study Hacks」で「ディープ・ワーク」と言い始める前から「山籠り」を実践されている。神経学者も言っている。「仕事に夢中になっているとき 、不意に電話が鳴ったら 、集中していたことが台無しになる 。たとえそのときには気づかなくても 、脳はその影響を受ける。 」筑波の落合さんは、自分にとってのブレイクスルーは、秘書を雇ったことだと言っていた。事務作業ができない。メールも返せない。だから自分の事務作業を代行する専属の人を雇って、その代わりに自分が2倍以上のパフォーマンスをだせばよいと(実際には500倍くらいは出しているそう)。
何かを遮断することで集中力は高まる。さて何からシャットダウンしようか。


(*)ディープ・ワーク:あなたの認識能力を限界まで高める 、注意散漫のない集中した状態でなされる職業上の活動 。こうした努力は 、新たな価値を生み 、スキルを向上させ 、容易に真似ることができない 。

働きかた改革

よく電車を間違える。間違えるときは何回も。線はあってるけど、逆方向とか。あってたけど乗り過ごして行き過ぎてしまうとか。リカバリーを何回かしようとして結局もとに戻ってんじゃんということも。まさにいまがその状態。いろいろ刺激を受けて考えをまとめようとしているときに、その傾向が強い。とくに帰りが多くて時間の縛りもないので、雰囲気で乗っているのだろう。めんどくさくなって地上でタクシーに逃げることも。考えたいことはまってはくれない。アイデアが出てくるタイミングはある。毎朝定期的に会社にいけばスイッチが入るなんてことはなく。スイッチなんてどこで入るかわからない。クリエイティブな仕事をする時間や場所はコントロールできないと思う。仕事と呼べるようなことをしている時間は限られていて、一気に高まることもあるし、全くできないこともある。そんなことではプロとは呼べないのだけど、強制力を働かせていい仕事をするというのは、考える仕事であればあるほど難しい気がしている。会社に行っても仕事はできない。ただの事務作業で時間が過ぎて仕事をしたっぽい感触は得られるけどそんなものは仕事ではない。こんなことを書くつもりはなかった…ほんとはもっと他のことを考えていたのに。

分担による分断

よくチームで何かを進めるときには分担という作業を行うけど、分担によって分断されてしまうワナがある。自分ができることは限られるので得意分野を活かしましょうねというのはまったく正しいものの、現場レベルで互いの領域に踏み入れないといいものはうまれない。人間のコミュニーケーションはよほどの関係性がない限り疎結合ではうまくいかないと思う。ロジカルにはこの仕事はAさん、この仕事はBさん、とわけることは無駄がないように思えるけど、Aさんの仕事をBさんも知らないと会話できないし、逆もそうで、互いの言ってることはわからないにせよ、歩み寄りがないと融合しない。互いの次元があっていてボールが落ちるというレベルであればまだましで、どちらかが献身的にそのボールを拾えば解決。難しいのは、次元が違う場合で、この場合ボールがロストしているにもかかわらず、自分のフィールドにはボールがないので、いくら探してもみつからない。いわゆる噛み合わないという現象は共通項がない、歩み寄りが足りないときに起こる。解消するには、相手のフィールドにいって、相手の言語を学ぶ必要があり、そのカルチャーに染まらないと糸はほぐれない。分担は効率性が高まるようにみえるけど、それによりもし自分はここまでと勝手にラインを引いて、溝ができてしまうのならその弊害はあまりに大きい。