なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

受託からの闘争

自分で背負ってすべてやる自由さとのバランス。自身のブランドがない状態のときにどこまで攻められるか。受託は支配される。やるべきことに対して自分たちが意思決定できる範囲が狭くなりがちで、言われた通りにやらざるを得ないことへのストレス、コントロールできないことによるもどかしさ。こうすべきだという提案はできるが決定権はない。自分で決めていないと大変なことを乗り切るパワーは出にくい。構図としては「アーティストが飯を食っていけるか」も近い。マーケットに安易に迎合するか、自分のポリシーを貫きながら新たな領域にチャレンジするか。最近、カイカイキキギャラリーで初の個展を開催された陶芸家の上田勇二さん。「今後もこういうトリッキーな制作体制を続けていくか否か、作家の気力、我々の興味の持続、経営的な判断、などが合わさって決定してゆくと思うが、仮に売れなくても、この後数年は、続ける意味はあると思っている。」オーナーの村上さんからも強い思いを感じる(*)。展覧会を乱発して受託で稼ぐのではなく作品作りに集中できる環境を提供し、そのアーティストにかける。素晴らしい。
一方で「受託案件を売上の安定化だけでなく、従業員のスキル向上、ポートフォリオの充実、さらには外部からの評価アップにまで繋げた」(**)のことばどおり、受託にはメリットもある。早い段階での売上の確保、それによる運転資金の充足などは手っ取り早くラーメン代を稼ぐという意味では、極めて重要であり、売上ベースのキャッシュインがなくても精神的にへっちゃらな胆力があれば別だが、資金調達だけで生き延びていると自分の金ではないので、ただの延命措置で早く事業を黒字化させキャッシュフローをまわさないと、いつ死ぬかわからないというストレスにずっとさらされることとなる。


* Kaikai Kiki gallery ひびき合う土の記憶 上田勇
2018年11月27日より12月10日まで
http://gallery-kaikaikiki.com/
「今回の展覧会の在り方が、日本の現在の陶芸業界の在り方とは随分違った道のりであることを説明せねばなるまい。 通常日本の陶芸家は、年に2回から15~20回ほどの個展を日本全国のギャラリーで行って行き、様々な土地で何回も展覧会を行うことにより販売効率を上げ、売上を立ててゆく。 その際、ギャラリーと作家との取り分は作家6:ギャラリー4で、委託となっていて、売れた作品分だけの後払い。 ギャラリーによっては手形を発行したりして、支払いの遅配で、陶芸作家にストレスを掛るケースも有る。
上田さんは、展覧会の数も少なく、かつ上記のようなストレスの経験は絶無というが、とにかく、年に数回の展覧会で稼いで食ってゆく行為を一切止め、今回の展覧会一回のために全てをこの1年半程、集中して来た。 つまりこの個展成立のために、我々は展覧会制作資金のサポートをしてきた。

サポートの流れは、上田さんが作品のプランニングを我々に伝え、いくら必要かという数字を提案してもらい、その提案に疑問があれば質問をし、修正してもらい、できるだけ少ない金額をはじきだして、彼に送金する。 送金して、作品ができあがって、彼からの作品の代金を提案されて、その代金の金額引く、先行に資金提供した額面を引いて、残金を支払うという流れ。 つまり、作品の先行買取で進んできた。」
** 2018.11.28 経営ハッカー スタートアップは受託をやるべきか
https://keiei.freee.co.jp/startup_jutaku_or_not

認知的負荷

英語を日本語変換せずに英語のまま理解できるようになるというのは、第2言語として学ぶ場合は間違っている。それなりの認知的負荷をかけてロジカルに理解するしかない。意識することなく言葉として扱えるようなステージにはいけない。けどがんばってコミュニケーションをとることはできるようになる。音として聞き取ることはできても意味が入ってこないのは、そのスピード感で構造と意味を処理できていないからで、疑問文の場合は、DoなのかDoesなのかDidなのかWillなのかIsなのかWasなのかといちいちやっぱり考えないとわからなくて、たくさん聞けば違和感を感じ取ることができるけどらいざ自分が話そうとしたときには瞬時には出せない。

ユニークネス

全く同じことをできるのであればその人である必要はないのか問題。物理的な動きでなければ、例えばしゃべり方なんかは、コピーすることができる。予測された言動であれば本人でなくとも価値が出せる?もしこれが真ならば、人間である必要はない。講演のスピーチはその日その場でその人がやることに意味があるのかもしれないが、そうだとしても本人にしか出せないものはなんなのか。臨場感?その人の歴史?ポジション?しかし、そんなものに価値があるのか?もしその言葉の持つ意味そのものに価値があるのだとすると、コピーすりゃよい。この問題はどちらかというと受容する側が人間であるというところにものすごく引っ張られている気がする。なんとなく機械だと気持ち悪いとか、なんとなくその人じゃなきゃ嫌だとか。そのコアな部分はなんなのな。コアな部分というくくりが正しいのかさえわからないが、意味がないと思えるものに少なからず生理的な影響を受けているのだとするとそれはコピーできない。

気分の問題

気分がよいとポジティブな思考に自然となる。この効果はあなどることはできなくて、ほぼ自分の気持ちひとつでパフォーマンスがかわる。他人からすればどんな気持ちでやっていようが、関係ない(というかあまり正確には人の気持ちはつたわはない)ので気分がいいに越したことはない。例えば元旦になぜか気分が良くなるとか、ほんとうになんの根拠もないことを本気で思えるのであれば、それはもう凄いことで、小さなことの幸せを見つけられるやつは、いろんな意味で強い。無理にポジティブになろうとせず、自然とそういう思考をキープできれば、大きな違いとなる。しかし、深夜の高速に立ってる工事のおじさん、ほんと大変な仕事や。お疲れ様です。

なす術なく

何が正しいかは個人の意思とは関係なく決まる。健康だと思っていた人が突然病気になるようなもので。めちゃくちゃ善人でもめちゃくちゃ悪人でも生きるか死ぬかは平等にやってくる。リスクを軽減することはできるが、本人にはどうしても避けられないこともある。株式会社においては、会社法などのルールが定められており、そのルールに従ってジャッジするのが正だとされているので、例え優れた経営者であっても突然解任に追い込まれることだって当然ある。現場の人たちは株主に対して、反発するし混乱はするけど気持ち的に受け入れられないことも容赦なく普通に起こる。世間ではカルロスゴーンが無罪だったらどうすんだよという論調があるが、くしくもこのタイミングで同じように(本人いわく)不当な理由で外され、志半ばで去ったという悔しさしか残らないニュースを聞いた。正しいとされることが必ずしも良いとは限らない。同様に悪いことはすべて不正とも言えない。

高級旅館

おおよそ温泉地の高級旅館は、2〜3万円が平均的で、部屋にお風呂があり、きれいめな部屋に泊まれ。一泊5万円以上になると送迎サービスや、部屋の広さやアメニティの多様さが変わってくる。コンシェルジュ的な人が専属でついてくる。周辺サービスも含んでの値段なので、そこでのサービスの質が落ちるとげんなりするし、そこはどんなにカッコいい建物でおしゃれな部屋でも客は離れてしまう。そういうところにくる人たちは、人の少なさ、(大衆的ではない)プライベートなしっぽり感も求めていて。値段が高くなれば結果的に買う人たちも少なくなっていき、客層も限られるが、そのレベルでやりとりされている世界がある。高級外車を購入したときの接待で使われたり、外国からの要人を招いたり。なので、お客さんの立場からすると、カウンターの料理人に評価されれば一流だと思う。彼らはいろいろな人を見てきている。客も逆にみられ、一過性できた人たちなのか普段から洗練された人たちに囲まれた人たちなのか。一瞬で見抜く。値段があがるにつれ、ハードではなくサービスに対しての要求やそれに占める値段の割合が高く。人をもてなすということへの値段はつけられないし、逆にリーズナブルな宿でもホスピタリティあふれるサービスはできる。 

本人でないと背負えないもの

患者とそれ以外の人は決定的な差がある。本人の苦しみは他人には背負えない。変わってあげることはできない。見ているほうが辛い。子どもなんかは特に。ドクターはたんたんと原因を特定し処置をする。痛くて苦しいのはそうなのだけど、それをも感じ取ってしまうと無力なのでそこは切り分けてやるべきことをしているようにもみえる。一見冷たいようにも感じるけど、すべて背負おうとしてもできないし、正しい行為をするためには客観的にならざるを得ず。緩和ケアはメンタルな面ももちろんあるが、事実から目を背けず取り得るベストの選択肢、本人の希望、それらすべてをひっくるめてエビデンスベースでケアしていくプロセスなのか。WHOの定義(*)でも、pain and other problems, physical, psychosocial and spiritual に対するアプローチとされている。

* 「緩和ケアとは、生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対して、疾患の早期より痛み、身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題に関してきちんとした評価をおこない、それが障害とならないように予防したり対処したりすることで、クオリティー・オブ・ライフを改善するためのアプローチである。」

Palliative care is an approach that improves the quality of life of patients and their families facing the problem associated with life-threatening illness, through the prevention and relief of suffering by means of early identification and impeccable assessment and treatment of pain and other problems, physical, psychosocial and spiritual