表現力
言いたいことを言えないという経験、伝えたいことが伝わらないという経験、そのもどかしさが強くするのかもしれない。思考が先にいっていると、外国語で話すときはレベルをさげた表現しかできず、伝えたいことの1割も伝えられない。その経験すらできなかったのが今までだから、少なくとも前進はしている気がする。
新チーム
噂は聞いていたが、堂安律という選手。個人的には森保ジャパンのナンバーワン。中島選手も柴崎選手ももちろん素晴らしい。がしかし堂安選手は堂安選手の雰囲気がある。一流の選手は雰囲気を持っているというが。オフザボールでランニングしているときに感じさせるものがあった。かつてのシンジ小野のようなセンス、才能。クラブチームでも先発し、点を決めていてコンディションの良さを差し引いても醸し出すオーラ。ただうまいだけでなく、強さも兼ね備えている。強靭な下半身のバランス。ボールタッチのリズム。何にも恐れない姿勢。世界と対等に闘うという言葉がナチュラルに感じとれる。世界と…などと言っている時点で意識してしまっているけどそんなことを言わなくてもいい、言う必要がないほどあたりまえのこととして、世界基準を見据えているよう。ワールドカップ以降、前後半通したサッカーを久しぶりにみたが、素晴らしいタレントをみた。ゲームのなかでは新キャプテンの吉田選手。右のアウトサイドで中島選手にまいて通したスルーパスがハイライト。あのパスセンス。もちろん決めなければいけないけど、外してもそのかたちができるということを示したわけで。何かがかかった試合ではないからひりひりした緊張感はなく。何が何でも感はなく外してもさばさばと。割り切りも含めて20代前半の選手たちがのびのびプレーするのは気持ちが良い。
クアトロ・ライフ
「豊穣の海」の舞台を観にいった。前知識なく行ったので四部作で時系列通りかと思いきや、春の雪の冒頭からいきなり天人五衰にとんで、ああなるほどこうやってスクランブルに進行して行くのかと斬新な構成に驚く。セリフはほぼ完璧に原作を再現していて気持ちがいい。後から知ったのだけど、本多繁邦の老年期を演じるキャストは笈田ヨシさんで御年85歳!。また演出はイギリス人のマックス・ウェブスター。マックスは「私は"三島"という神話を知らずにこの作品に取りかかったので、シンプルに人間ドラマを描こうと思っている。日本人と違って、三島の影におびえずに済むのは有利だ」(*)と言っている。確かにそこは私たち日本人の感覚とは異なる三島像があり、だからこそ人間の醜い部分や美しい部分が切り取られてピュアに表現されているよう。また、別のインタビューでは三島の言葉で「When you see the something truely beautiful , it’s like suddenly happened drop ink put into water.(人が真に美しいものを目にするということは、水面に突然インクが一滴落ちるようなものだ)」(**)とも。すぐには受け入れられないけど後からじわじわとくる。何かわからないけど何かが自分に刻まれる。そんな感じだろうか。異物感があるのはやっぱりいい作品ですっと飲み込むことができない心地よさがある。デュアルライフとかトリプルライフとか、人は同時進行でいくつもの人生を演じ分けているといえばいるので不自然さはない。そんな単純ではないけど、それを1人の人間によって導いて、3つのホクロでわかりやすく4人が繋がっている。「又会ふぜ、きつと会ふ。」のポスター、世界観がとても好き。
* 初の舞台化! 三島由紀夫『豊饒の海』で向き合う「生と死」、そして「美」
https://www.huffingtonpost.jp/foresight/entry-slug-1541045783702_a_23576491/?ncid=engmodushpmg00000008&utm_campaign=share_line
** 「豊穣の海」マックス・ウェブスター インタビュー https://youtu.be/ukxasxruq38
世界はフラット化してデコボコになった
どんなにいいものでも聞いたことがないものはふりむかれない。無名で有能な政治家に有名で無能な政治家が勝ってしまう。多数決は母数が多いと確度が低くても達成する。結局リーチした数による。コストをかけないと競争力のあるコンテンツにならない。どんなにすばらしいコンテンツでもいきなり浮上することはなく、中の人がコストをかけてメジャーにしようとしている。外の人からは見えにくいコスト。ある程度プレーヤーのいるマーケットで勝負するとなれば、やっぱりコストをかけたやつが強くて上にいる。社会的に有名になっているやつらもそのレベルにいくまでかなりつっこんでポジションを獲得したわけで。マーケティングなんていらないと思っていた時期があるけど、既に既存のプレーヤーがコストをかけているので、それを上回るにはウルトラCなどなく、それ以上にコストをかけないと超えられない。誰かが出し抜こうと戦略的に動くから駆け引きがうまれて、浮上するためのコストが必要になる。これは社会的な損失ではなかろうか。ただただいいものが売れるというのは理想論過ぎるのだろうか。2006年のフリードマンはたしかに正しそうな主張に思えた。2018年のいまはインターネットでフラットになったと思った世界も逆にインターネットだからこそ、アルゴリズムが介在する余地が多分にうまれてしまってぜんぜんフラットではない。