なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

人は簡単に変われない

ロバート・キーガン先生の著書「なぜ人と組織は変われないのか」で示されている「免疫マップ」を使って、気になっている女性がいるのに、なぜ踏み込めないのかを分析。結論としては、自分が傷つきたくなくて自分を守るためと人に言うために仕事をしていて、それを言い訳にひとりの女性でさえ愛せないことが浮かび上がってきた。そういうやつになっちゃいけないと思っていたのに…自分がまさにそうなっていたとは。思考様式の変容、OSを変える。言いたいことはわかる。わかるけどどうすればよいのだろう。自分の思いとは裏腹にかたちから入ろうとしてしくじったことが引っ掛かっていないといえばうそになる。

○改善目標
誰かと一緒にいたい、話がしたい
プライベートで幸せな時間を過ごしたい
精神的にも肉体的にもリフレッシュしたい
(旅行がしたい、セックスがしたいなど)
自分と違った視点の助言がほしい
仕事以外の充実がほしい

○阻害行動
仕事の中身ではなく時間を最優先にしている
実力がないことを認めたくないので、他の人がやらないような努力していることで、あれだけやってダメなのだから仕方がないと思ってもらえるような仕事の仕方をしている
相手のことが気になっているのに連絡はしない
できれば相手から連絡してきてほしいと思っている
一緒にいたいと思うときは、時間的にはほんのわずかな時間だから、関係をつくってしまうとそうでない時間のほうが多くなるので、相手にも悪いからと正当化して、建設的に関係をつくりにいこうとしない

○裏の目標
相手より有利な状況にいたい
(自分から言うと不利になる)
自尊心を傷つけられたくない
惚れさせたい
相手の理想であり続けたい
こどもを育てる余裕がない
じつは稼ぐ自信がない
仕事以外のことで振り回されたくない
余計なことで心を奪われたくない
考えることを増やしたくない
義務を負いたくない
他人に指図されたくない
自分の時間がほしい

○強力な固定観念
自己犠牲の精神を保ちたい
仕事とプライベートは両立すると仕事の時間が削られ仕事の優位性を失うだろう
他人に依存するくらいならやらないほうがましだ
周囲のプライベートな人たちから評価がほしい
自分でコントロールしていることを示したい
自分の人生は自分で選んでいると認められたい
(誰かの言いなりで考えずに選択していると思われることへの反発)
誇らしいと思え、自分のことをあまり知らない人にちゃんと話せる仕事をしていたい
誰かに思いをぶつけることで、自分が頑張っていることを認めてほしい

 

せめて素直でありたい

なんでわかんねーのかなぁというときに、バカなのかこいつはと思うのもいいけど、わかる素養のないやつは世の中にはいて、いくらわかってもらおうとしてもわかってもらえない。そうなったときにはロジックではもはや無理で感情を伝えるコミュニケーションにきりかえるのもひとつのやり方で。やめてほしいというときに、悲しいとか怒ってるとか、実際にその感情じゃなくても、そう伝えることによってよくないことをしていることは伝えることはできるし、何かしら伝わる。
ところで、赤ちゃんはことばが使えないのですべてを感情で表明しており、難易度の高いコミュニケーションをしている。むしろ人間的にみれば、感情的なコミュニケーションのほうが難易度は低いのかも。ことばを使わないと精緻には伝えられないけど、そもそも伝わらない相手なのであれば、そこは諦めて、通じない相手だとして割り切ったほうがよく。そこで問題になるのは素直かどうか。せっかく怒っているのに、なんか怒ってるわこの人などとひいてしまうと、真摯にとらえにくくなる。
反面教師で我が身を振り返れば、相手が感情的になっているとには、自分が相手を理解しきれなかったともいえるわけで、言葉でのコミュニケーションを放棄されてしまっている。怒っているのには理由がある。なぜ怒ってるのかはわからなくても、何かしてしまったんだと考えたほうがよく。自分が理解できていないだけでやらかしてしまった可能性があり。大人は悪いからそれで騙されるかもしれないけど、だとしても人の気持ちはできるだけわかろうとしたいし、せめて素直でありたい。自分のレベルが低いせいで理解できないのだから、相手の感情をくみとって一生懸命考えてみる。学習とはわからないことをわかろうとする姿勢なのかもしれない。

現実と紙面の乖離

たいていの問題はどちらかが明らかに間違っているというのはなく、両方筋が通っていていわゆるコンフリクトしている状態が多い。どちらを取るかというのは価値観でそこに正しさはない。ルールでそうなっているから、という理由はひとつの論理だけど、そもそもなぜそのルールがあるのか、なんのためのルールなのかみたいなことを思慮しないと、本来の目的から逸れて、振り回されて不幸になる。世の中にあるルールは誰かがつくったわけで、思いは必ずある。悪法と呼ばれるものもあるが、それを作らざるを得なかった事情があるわけで、別の角度からみれば筋は通る。ルールを越えようとするとなぜ問題なのかがわからないと判断できない。その問題の本質といえるようなものとルールをちゃんとつないで、本来的にはこうあるべきだという考えがいる。ルールとか無視して普通に考えたらおかしいと思うものはたいていおかしい。変な理由で正当化されていて誰かが無理してなんとかバランスをとっている。でもそんな状態は長く続かないし、どこかで誰かが正さないとまずいことになる。国やら規制やら権力は変わることに対しての抵抗が強すぎるので、それをも上回る権力がないと正せないけど権力こそ正しい方向にもっていかないとそれに支配される人たちが疲弊する。そういう仕組みだからというのは思考停止している証拠で、だめなものはだめなのでやめたらいいし、それで次がないのであれば単に実力がないだけ。予算は使い切らないといけないなんてのは普通に考えればおかしくて、必要ないなら使わないか別の用途に使うべき。予実がズレるのは普通のことで蓋を開けたら違いましたごめんなさいですむわけで、それなのに予算どおり執行しないと次がなくなるみたいな意味不明な理由でないものをあるふうにみせるのは愚の骨頂。なんかへんてこな理由で続けてつじつまを合わせるのが得意な役人はいらない。まじでいらない。そして自浄してますアピールでルールをキツくして自分たちの首をしめている。それでいちばん被害を受けるのは事業者であり、原資で税金を納めている国民である。

そぞろ神

仕事の熱量は怒りなんじゃないかと思えてきた。テンションが高けれりゃハイパフォーマンスを発揮できて、テンションを維持させる動機はなんだってよく、なかでも怒りのという源泉は強い。どう考えてもおかしいやろという思いは居ても立っても居られなくするし、結果、それがかなりの推進力となる。最近、個人的にはキーボードのエンターキーが割れるという事件があったが、そんなに強く押してるつもりはないのだけど…やりたいからやるより、やらないとかありえないというほうが強くて、怒りは抑えられない思いという意味でかなり強烈。

忘れない予定

グーグルカレンダーがないと自分の今日のスケジュールさえわからないのだけど、どうやら、カレンダーに頼らなくても勝手に意識下にある予定がある。それは自分にとって重要であり、かつ、常にどこかで関心を捨てきれないイベントなのかもしれない。意識してなくても潜伏していて常にそのことを考えてしまうような。要は自分でコントロールできているようで(スリーピング状態でもプロセスはバックグラウンドで走っている的な)実はコントロールできていなく、夢中になっている。重要だと認識してなくても楽しみにしていることはやっぱり忘れきれずにどこかでそのことを考えている。これが恋なのか?忘れないという判断軸は自分の興味をはかるうえで、自分がいまほんとは何に関心をもっているかを知るうえでとても参考になる。

プロの喋り手さんの話し方

昨日、東大で吉笑ゼミというのがあり、吉笑さんに関しては「現在落語論」を読んで以来、超ファンになったんだけど、しかもゲストが森田真生さんだということで行くしかないということで聞きに行った。やっぱり素晴らしかった。
じつはファンと言いながら落語家さんの喋りを生ではじめて聞いたのだけど、ネタに入るまでに話すいわゆるマクラが素晴らしくて、お客さんをつかんでいて、ほんとうにその場の空気を次々と作り変えていって心を動かされた。明らかに狙って笑いを取りにいってはめている。ぼくも完全にやられたひとり。めちゃくちゃ高度に組み立てられている。おそらく、おおまかに話す流れは決めながらも、引き出しがたくさんあってウケたフレーズをちょいちょい挟んできたり、会場の雰囲気をみて言葉を選んだりしている。根拠はないけど明確にそう感じた。間だったり、タイミングだったり、そういう駆け引きはやっぱりプロの技だなぁと。
ホンダの二足歩行ロボットのアシモは2006年当時、記者の前でデモンストレーションするまで6時間くらい計算して、厳密にシミュレーションしていたけど、プレゼンしたときには実際の階段が2ミリズレていて登れずコケた状態で「ボク歩けるよ」と言ったという話があったが、アシモはまさに歩けるようにみえているだけで、歩いていない。一方で、吉笑さんはその場で高速にジャブをうったりストレートをうったりして、喋っていた。ひとりで喋っている、というのが客観的に観察できる事実ではあるけど、どう考えても直感的にはお客さんと喋っていた。お客さんは喋っていないのにお客さんと喋っている。笑いや反応に呼応して、ほんとに気持ち良い空間。ライブに行ってくださいというのはほんとそうだなと。あれなにこの空気?みたいなのはその場にいないと感じられない。後から落語家さんの音声を聞いてもそれはほんのわずかな音声というもののみの情報を切り取っているので、ぜんぜん違う。ほんとにぜんぜん違う。
おもしろいことはいくつもあったけど(笑う前から)「もうおもしろい」というのはひとつの発見だった。前フリがあって伏線はって落とす、みたいなのは常套手段だけど、ものすごく丁寧に伏線はってくれると、オチの前にだいたい予想できちゃうので、喋らずに空気だけで笑える。これはヤバい。前のめりの笑い。想像力をえぐられているから、笑わないわけがない。この「もうおもしろい」というような状況が何度かあった。これこそレベルの高いコミュニケーションで、一般的な社会では時間をかけて他者との関係をつくりだすが、短時間のうちにあっちからがんがん仕掛けてきて勝手に関係をつくられて強制的にもってかれる。
自分の立場や状況など設定を説明したうえで、かるくディスるというか、ソフトSというか、ちょっとイジるというか、普通こう思うよねという共感の部分で握っておいて、え?みたいな視点を示すテクニックも超勉強になった。シリアスと笑いは紙一重だなぁと。メタからみると極めた人というのは、何言ってるかよくわからないけどなんかすごいんだろうなという点でたいていおもしろくなる。こうやって世の中を眺められたらもっとハッピーなんだろうなぁ。おもしろいと感じる視点はそれぞれだけど、ぼくも彼らと同年代だし勝手に親近感がわいているのでこんなヤバいやつがいるんだよということをもっとみんなに知ってほしい。

目的的に考えると世界は狭くなる

謝ることに意味はあるのか。ごめんなさいと言ったところで、やっちまったもんは変わらないし、気持ち的に何か変わるかというとそうでもない。謝るという行為が、ある一連の手続きになってしまっているようで、謝ることで謝ったほうも謝られたほうも何も変わらない、と考えると意味はないように思える。とくに理性に偏って考えているビジネスの場においてはなおさら。最近だと北朝鮮がミサイルをとばして日本政府が猛烈に抗議したとかあったけど、そのレベルに近い。具体的な行動を変えさせるための働きかけではなく、やる前とやった後で何か変わったんかい?という不毛さを感じる。
だからといって何かやらかしたときに謝らなくていいかというと、そうではない。意味はない。意味はないけどやるべきことはある。そもそも、人の行為に意味をいちいち考え出すと、答えのないことは山ほどある。朝起きて、おはよう、と挨拶を交わすのも突き詰めれば意味はない。けどみんな挨拶をする。そして毎回おなじおはようではなく、異なる距離感、タイミングで、違うおはようが毎朝うまれている。目的的な思考はそこにはない。社会はサイエンスだけで成り立っているわけでなく、もっとノイジーでカオスに満ち満ちている。意味や論理の厳密さを求めようとすればするほど、人間そのものの感覚から遠ざかり、人間はその違和感を感じ取れるだけのセンサーがあるのでいわゆるしっくりこないという状態になる。そういうモードに入っているときは意味ないよねとか言えるけど、人としては少し不自然なことをしているようにも思う。