なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

よくわからないけど惹きつけられる人の魅力

自分で出した答えに自信を持つとともに自分だけで出した答えなんてたいしたことないという相反することを同時に思っている。どちらか一方のみが正しいというわけでなく、どちらも正しい。矛盾した状態が気持ちとしてはしっくりくる。論理的に考えることは整理するのには役に立つけど両義的な状態が現実には多い。なので、お客さんに提案をするときには当然、自分のいま時点のベストを尽くすのだけど、話していくうちにアイデアが育って変わることはある。そこを取り下げるやら言ってることが違うやらと現象だけを捉えられてしまうととても本意ではなくて自信はあるけど変化は受け入れるし、考え方が変わることは普通にある。ブレているわけでなく、現実を正しく認識するとしかるべき答えは導かれる。ビジネスではコミットメントという言葉にあるように、極めて合理的な条件が提示され、変えられない、守るべき約束ことを前提に進めることは多い。そんななかで、言い訳と思われないよう、まじめに考えて約束を守らないほうがよいということもある。結局は書面ではなくてこいつの言っていることが信用できるかみたいな話になってくるので、超法規的な合意をどれくらいできるか、それがその人の凄さであるように思う。立場が高くなればなるほど多くの人の合意形成が必要条件になる。それをも超えて納得させてしまう人は、いわゆるカリスマやらリーダーシップなどと表現される何かがある。

ずっと考えているわけではない

同じ空間・場所にいれば、相手のタイミングで話しかけられたりする。それをどこまで許容できるか。お互い相手のことを四六時中考えているわけではない。仕事であれば「でなければならない」という制約で(だからこそお互いに気持ちよく働ける空間は必要なのだが)協力しあう。一方で、プライベートはとくに義務的なものはないが「したい」という理由で一緒にいる。それぞれがそれぞれのペースで生活をし、たまたま時間があえば一緒に何かをする。それくらいの関係性で気軽に考えれば、付き合うとか結婚するとかのハードルはそれほど高くないようにも思う。自分のペースが大事なら相手に振り回されることを前提にそれを上回る何かを見いだせるか。関係をもてば、物理的なことだけでなく、精神的にも考えることは増える。ずっと熱い状態でいるのは疲れるので、冷めた状態で自然でいられる相手をみつけることが解のひとつかもしれない。ふたりは、気持ちが独立しているのはあたりまえで、どちらかが勝手に盛り上がってどちらかがちょっと冷静になると、すれ違う。長く一緒にいる人たちが無意識に同調するのは、そのほうが楽だから?ロマンチック過ぎる恋を想像し、幻想を現実と取り違えるとこじれる。ぜんぜん可愛くない服を自分のなかで可愛いと思って着ていたなぁとか思い出だすのは、特定の人にしかいだかない感情で、そうやって仕方がないなと包み込める相手はラインを超えている。

勝手に妄想力

想像でそっちの世界に入っているひとはそれが当たり前になっているので、外のひとからみるとプラスの方向に振れていて崇高なことのように思えるけど、なかのひとからみればそれが基準なので、むしろゼロ。現実はひとつだから、外からゼロにみえていてもなかではマイナスなわけで、なぜゼロにならないのかというマインドセットで考えられている。マイナスの場合は現実がおかしなことになっているので、すでに進行している。いまの世界で実現されているされていないに関わらず、世界の見え方・捉え方は人によって違う。そのあたりまえの基準の違いがいわゆる「ふつうでしょ」の感覚をつくりだしていてそれらがちょっとずつズレているから「えっ、そうなの?」というギャップがうまれる。なんかやってんなぁと上を見上げるより、なかに入ってしまってできてないけど、できたふうな思考に進めておいたほうがうまくいくような気がする。

抑圧が行動を決める

「仕事の熱量は怒り」ということを以前書いたが「革命の裏には抑圧がある」ということことを國分先生がおっしゃっていた。モチベーションの源泉は怒りだとすると「どう考えてもおかしい、歪んでいる」という不条理は、社会や権力などによる一方的な押しつけからきていて、それを是正しようとする心の動きなのかもしれない。革命というと仰々しいけど、既存の枠組みが壊されて再構築されるときは、みんなの怒りが溜まって爆発するというエネルギーがないと一気に進まない。そもそもそんなめんどくさいことをあえてやろうとするのだから、そうとう溜まっているのは想像に難くない。怒りの矛先がどこに向くかというのは、昨今では血を流さずに選挙で意思表示ができ、その意味でトランプは国民の怒りの象徴とも言える。ひとの行動は、こうした社会的なうねりだけでなく、個人レベルでもやっぱりこの「突き動かされる何か」が背景にあるように思う。下ネタだが、思春期のときに親の目を盗んでなんとかおっぱいを見ようとする努力は、明らかに溜まっている。わざわざ遠回りしてパンチラが見えそうなタイミングを狙って、すれすれのラインを攻める。いま思えばそこまでするかというくらいのことをしていた。大人になってその努力を怠るのはエネルギーが不足していることにほかならない。國分先生によれば「自分のなかにあるコナトゥス、必然性を発見してそれに従って生きていくというのが『よく生きる』ということ」。深く掘っていって自分の置かれた状況正しく認識できれば、怒りの矛先が決められるし、なぜ自分が怒っているのかわかる。どういうことに怒りを感じるのかがわかれば、同時に自分がとるべき行動が決まる。

「社会には当然様々な抑圧がある。で、みんな嫌だって思ってるけど、なんとなくやり過ごしている。でも、みんなで同時に「本当に嫌だよね」ってなったらそれはもう革命なんですよね。別に僕は「革命起きろ」とはまったく思っていないけど、しかし、革命的な何かが起きるべき時に、抑圧によってそれが抑え込まれているなら、それは何とかしなければいけないと思います。そうした抑圧は必ず鬱憤として溜まって、どこかにー多くの場合は、子どもや社会的弱者にー向けられることになるわけですから。」

出典)國分功一郎×二村ヒトシ「この本は、単なるモテ本ではない。実践的かつ、真面目な倫理学の本である。」より

遊牧民

器をつくって、人なりお金なりをプールして同時にいくつものことができるというのが会社のひとつの存在意義。器があれば、事業のポートフォリオが組めるのでリスクを自社内に閉じた状態でとることができる。個人プレーだと市場のニーズに合わせにいって目先の売りをたてながら、ぜんぜんお金にはなりそうにないけどすごい技術に投資するみたいな動きを取りにくい。で、市場に受け入れられたサービスがある会社が生き残っていて、実績があるからさらに冒険できるようになって、多少無茶だと思われるような事業にも突っ込みさらなる成長を遂げる。
ところが、最近では会社にしないとできないと思われたことが意外と個人レベルでもできんじゃんという仕組みができてきて、マイクロファイナンスしかり、バックオフィス業務の効率化しかりで、次々に便利なサービスが小規模にできている。ばらばらに存在していて必要なときに有機的に結び付いて集まりプロジェクトが終わったら解散してまた次のプロジェクトに。そうだとすると、何が失われて何が残るのか。

中間管理職

社長からしたらなんでできないのか。権限も与えた。能力が低いわけではない。でも現場を動かせない。足りないものがあれば言えと指示は出している。だけどまわらない。なぜかまわらない。社長の権限を使って言えばできることでも担当レベルがいくらいっても権限があるからといっても現場は簡単には動かない。そして現場の人たちはだいたい担当者より経験が目上のひとたちが多い。
そういう組織は、社長はできない理由がわからないし、担当者は上と下にはさまれて困る。結局は社長の右腕を育てるという人材育成に行き着くのかもしれないが。社内調整というとイメージはあまりよくないけど、違う人たち、自分は関係ないと思ってる人たちを巻き込むのは動かすためには必要で、開発や営業のなどとはまた違ったスキルセットだから、既定路線で優秀な人を抜擢しても期待してたほどの成果が出ない。新事業を立ち上げようとすると売上が100億の企業も1000億の企業も似ている。取締役会などプロセスが多少かたくなることはあるが止まる場所は人を動かせない点では同じ。

空気を読まない力

筋が通っていることにノーと言えるかがマネージメントの要諦な気がしてきた。正論を無神経に跳ね返す力。現時点では論理的でない意思決定をする勇気。たぶんこれは当事者でないと納得させられないし断行できない。コンサルのように第三者的なポジションだと、間違っているとわかっていながら断行できるだけの権限はない。いま間違っているだけで将来は勝てると読めている場合、根拠はない。その状態でまわりの反対を押し切れるか。賭けられるか。
正論を言ってくる部下がいちばんやっかいだという話を聞いたが、正論をノーとはねのける芯が必要で。現場から離れていないと、もしくは、現場に近くてもあえて空気を無視しないと判断できないかもしれない。デリバリーしようとしたときの弊害は下手に現実を知っていること。それが足枷になり最初から落としどころを考えるとつまらない案しか思いつかない。