なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

言ってほしい人に言ってもらえるということ

仕事ではいろいろな人と付き合わなくてはいけなくて、理不尽に攻撃的な人をいかにおさめるかみたいなところも仕事のひとつなので、精神的に削られることも多く、そうしたクレーム処理のようなことばかりが重なると、本当に自分のことを思ってくれる人からの言葉が暖かい。ある先生からふと「がんばってくださいね」と言われ捨てる神あれば拾う神もいるのだなと素直に感じた。言葉は誰に言われるかというのも大きくて、尊敬しているひと、自分が好きな人に言ってもらえた言葉は重い。師匠にかけられた言葉を忘れないように、関係性のなかから紡がれる言葉は固有のものである。

あるのにない

世界的に有名なベンチャー企業も本社にいくとひっそりとたたずんでいてその存在に気がつかないことがある。先行している知識が多くて勝手にイメージを膨らませているが、物理的にはなんら、なんら特徴がない。意気揚々と上京して東京にきたものの東京は何もないと感じることに近い。あるのにない。あるはずのものがない。超有名な経営者も普通にいると気がつかないことがある。人がつくりだしたものは、目の前にあるからといって必ず圧倒されるわけではない。距離の近さと存在感は比例しない。いま日常でみえている景色も自分が見逃しているだけでものすごいチャンスが埋まっているかもしれない。すごいものはひっそりしている。

寄り切り

後輩が結婚するという話を聞いて、一回別れた子だっていうのを聞いて自分と重ねてしまった。彼も結婚する意味がわからず横綱相撲で寄り切られたというタイプ。アクロバティックな技を繰り広げたわけでなく言葉どおり自然に。相手がしたいというからすると。別れた女の子に連絡をとるときは、相手がまだ自分のことを思ってくれているという自信があったようで再会してそのまま結婚。完全に自己中心的な考え方だけど自分もなぜかまだおれのことを好きだろうという自信があり、本気だからこそ軽い気持ちで連絡ができない。遊びの女の子ならいくらでも連絡は取れるけど、ちゃんと考えれば考えるほどためらってしまう。「めちゃくちゃかっこ悪いと思うのですがまだあなたのことが好きみたいです。困りました…」もなんか違うし「ずっともやもやしててやなので言うけど、たぶんまだあなたのことが好きみたいです。どうしよう。」も未練たらしい。「自分でもよくわからないのですが、なぜちゃんと思いを伝えきれなかったのだろうと引っかかっています。」もぴんとこない。とかいろいろ考え結局気持ちが固まっていないことに気がつく。彼によると、1人の人に決めたからといって他の人を見なくなるというのはなく、でも帰る場所があるという安心感があるという。相手もその性格をわかってて見守ってくれているという。とてもいい子を見つけたようで。お幸せに。

サブスクリプション

とあるファームの人間がコンサルティングの人月ビジネスは限界だよねと言っていた。人増やさないと稼げないというのはたしかにきつい。それで上位のファームはサブスクリプションモデルに移行しつつあり、中堅以下のファームは人を増やしてコモディティ化しているという。
コンサルティングを開始する前に問題や課題がみえていて、方向性が決まっていればいついつまでに何をしましょうと握れるけど、変動要因が多すぎる状態で予算ありきでうごけば中途半端な状態(やれる範囲で動いて途中で終了するか、無理やり働いて消耗するか)で終わる。プロジェクトが終わったときになんのために高いお金をこの人たちに払ったのかという疑義が生じて双方にとってとてもよくない。確かに先行き不透明な状態で契約しようと思うと投資に近いかたちでとにかくお金は払うからなんかやってくれというざっくりした自由度の高いオファーのほうがやりやすい。人月を積算してコストオーバーしましたこれ以上働けませんていうのは筋違いな気もする。一方でじゃあ全部その投資型の契約にしてしまうとあまりにリスクがあり過ぎるので、確実にリターンが見込める硬いビジネスも同時に走らせる必要がある。ではそのバランスはどれくらいが適正なのか。捨て金と明日飯のお金の比率。死なない程度にいくつか張っておく。コンサルティングに求められることも目の前の問題解決でなくなってきてきるのは確かで、先が読めないなかでどう道をつくってどう進めるかという、本来は経営陣がやるべき仕事にもなってきてきるように感じた。

変わることが正なのか

disruptは、イノベーションの文脈で聞くケースがほとんどで、なぜかdisruptiveを否定できない空気を感じている。ほんとか。毒されていないだろうか。これぞまさにフィルターバブルじゃなかろうか。disruptiveの意味は混乱するとか秩序を乱すというもので、日常的にあるとするとちょっとやめてほしいとも思えるような概念。市場を創造していくうえでたしかにぴったりな表現だが、社会の基盤がもしdisruptiveだとすると、とても疲れる。日本語で否定的に感じ、英語では肯定的に感じる矛盾。つながっていない。変わることが正であるという、いわゆるダーウィンの進化論的考え方。しかしながや、世の中のたいていのことは連続的で緩やかに変わっている(だからこそ桶狭間的なこれまでの常識では考えられないような戦略が一気に形勢を逆転させる力を持つのだろうけど)。
そもそも働きたくない、仕事を増やしたくない、という人たちは抵抗勢力に思えるけれども、相手の気持ちはわからなくはない。彼らにとっては我々が抵抗勢力で。変わることためにはエネルギーがいるし、ストレスがかかる。場合によっては血も流れる。これまで生きてきたのになぜいまか。しかも当事者でもない人たちにやらされなきゃならないのか。歴史を振り返ればチャンピオンデータだけが注目され、美しく、かつ、わかりやすい理論だけで語られるけど、実際には現場は混沌としていてジャンクなものが混じっている。むしろゴミデータのほうが多い。

一回死ぬ方法もある。弱い人かいて強い人がいる。全員が全員、強い路線でいけるわけではない。強いものがいいとも限らないし、変わらずに生き残っている人たちもいる。現場のベストは一般論にならない。僕たちは(いまのところ)人間を相手に仕事している。

学びとは"つながり"に気づくことかもしれない

ユージン・ウィグナーは「自然科学における数学の理不尽な有効性」という論文で、自然科学と数学を結びつける調和は unreasonable なeffectiveness であると述べている。認めざるを得ないけどそうなっているという表現がなんとも物理学者らしく微笑ましい。理屈というのは最初から存在しているわけではなく、人間が勝手に作り上げてきたもので、そっちからみればそうかもしれないけど、じつは同じ対象を違った角度からみていただけで、そこでつながっているんだよという発見。例えば、数学の世界では、アンドリュー・ワイルズフェルマーの最終定理に楕円関数の特性を応用したり、アインシュタイン特殊相対性理論にリーマンの非ユークリッド幾何学を応用したり。各分野、専門を突き詰めて深遠なところでなぜかつながる、というところに感動と美しさがある。分野が離れていればいるほど驚かされる。それをそう使うか!的な独創性。
人間が学ぶことに気持ちよさを感じるのは、このつながりに気がつくからなのかもしれない。子供は「自分が知っている全てが全世界」で最初はひとつひとつばらばらに認識し、世の中のことにいちいち驚く。たぶん初めて見たというだけでなくそのつながりを発見してわぁすごいと脳が興奮しているんじゃなかろうか。誰かがすでに発見したことであっても(たいてい自分がよのなかではじめて発見することは少ない)自分が知っていることどうしがつながるとテンションがあがる。知識が増えるにつれ、概念をまとめていかないと理解が追いつかなくなるのである抽象化して世界をとらえはじめ、そのパターンに整合させながらみてしまうけど、そもそも自然の美しさは全体的で包含されているので、偏った知識でとらえるのはあまりにもったいない。さらに同時代に生きた人々は互いに影響しあっていて、誰が誰の先生だったとか、そういう歴史的なつながりを知ることもおもしろい。

人間はいまだにたし算とかけ算の関係すらわかっていない

中高生にわかるIUTの解説ということで加藤先生の講演を聞きに行った。感動した。なんとわかりやすい解説か。望月先生の論文がヤバいヤバいと騒がれているが、世界で理解できている人が数名という話ではなく、数学的にみてどれくらいウルトラC的な発想をしているか、ということが理解できた(気がする)。そしてご本人がおっしゃっているように、実は言われてみれば、"自然な考え方である"というメッセージも刺激的。

「私が講演の中で言いたかったことは、この『複数の数学舞台を駆使する』というのは、実はかなり自然な考え方なのではないかということです。」(加藤先生のtweetより)

 

以下、記憶を頼りに起こしたメモ。

○人間はいまだにたし算とかけ算の関係すらわかっていない!

たし算の世界とかけ算の世界は複雑に絡み合っていて、ABC予想とは、その関係性を表したもの。a+b=cの関係で、a*b*cを素因数分解して、べき乗を1にしたときの数をdとすると、cとdを比べたとき、ほとんどdが大きくなる(cが大きくなるのは有限個しかない)。

たし算とかけ算が混ざると難しいことに関しては、…例えばどれくらい素数があるのか、素数素数の間はどれくらい離れているのか、2を足したら素数になるのか(双子素数)…ABC予想とは、まさにこの類で、たし算の世界とかけ算の世界の関係を示しているから難しい、というところから話が始まり。

フレンケル教授が白熱教室で使っていた「学校で教わる数学は、完成図のあるパズルをとくようなもの」、「研究する数学は、完成図のないパズルをとくようなもの」という比喩を用いて、IUT理論は、本来は(異なる舞台にそれぞれいるので)ぴったりハマらないはずのパズルのピースを、別の舞台に行き来させることによって、ハメてしまおうというもの。ただし、舞台が違うので、共通していえることといえないことがあって、じゃあ舞台間で、どれくらい違うのか「その歪みや不定性を評価しようとしている」。例えば、日常生活における女優と舞台上の女優。同じ人なのに舞台では話しかけられないし、握手もできない。何が共通した性質で何が共通しない性質なのかと。

○異なる舞台を接続する通信手段として、モノではなく、対称性を用いる!

ここで、モノではなく対称性に注目して群の話を少々。モノには対称性という性質が備わっていて、三角形を120度回転させれば重なるし、1点を固定して折り返せばやっぱり重なる。モノに備わっている対称性は、例えば三角形ABCなら、そのまま、右120度回転、左120度回転、頂点Aで折り返し、頂点Bで折り返し、頂点Cで折り返しの6つに閉じており{e、σ、σ^2、τ、στ、σ^2τ}などで表現され。この対称性さえあればモノとしての三角形がなかったとしても、対称性から三角形を復元できるという発想。さらに、異なる舞台に送る対称性の情報が少ないとうまく復元できない(三角形は3点しかないのでもとのかたちに復元しにくい)が、複雑であればあるほどもとのモノに近い状態まで復元できる。IUT理論は、限られた通信手段を用いて計算方法を伝達しており。モノに備わっている対称性を分離、通信、復元することによって、たし算の舞台とかけ算の舞台でやりとりしている。専門的には遠アーベル幾何などいくつもの理論のうえに成り立っていて、実際には"それなりに高級"どころではない理論が展開されているものの、何がどれほど難しいのかなんとなくわかった気に。気持ちよくなっていたら、最後にこのアニメーションを見せられ
http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~motizuki/IUT-animation-Thm-A-black.wmv
…はい。なにもわかっていません。