なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

本質的な議論

竹中平蔵さんが社会保障に関して「年金が払えないなら、法人の社会保険料をあげればよいという本質的なことがまったく議論されていない」と言っていた(*)。あまりにそのとおりだなぁと思ったのでメモ。
・年金は社会保障でなく社会「保険」である
・であるならば、保険料をあげればよい
・保険料は、個人と法人が払っており、法人は保険料をあげようとしない
経団連は自分たちで払いたくないから消費税をあげて賄おうとしている
・消費税は逆進性があるから一度上がったら下がらない
・年金は「生きること」に対するリスクなので、生きられる=収入がある人には保険金を払わなくてもよいが、一定の年齢に達したという理由だけで払われている
自分の会社でも社会保険料はみんなの分を合わせれば何人か雇用しているくらいの金額が毎月引き落とされている。固定費として仕方ないとは思っているが精神的にはなんとも言えない気持ち(誰に何を払っているのかよくわからないので)になる。社会に貢献していると整理すればそれでよいのだけど、しかしながら、すごい資産を持っている後期高齢者に払われていると思うとなんだかなぁと腑に落ちない。助け合いの精神は否定できないがいざ本気で自腹を切れるかというとなかなか血を流してまで他人を救おうと思えるかは微妙なところ。だからこそ強制力をもってしてでも徴収する仕組みをつくり強引に進める必要があると思うので、政治家の皆さんにはほんとに持続可能な社会保障制度を本気で議論し改革してほしい。

* G1サミット2018
日本が歩むべき「次の10年」~世耕弘成×竹中平蔵×小泉進次郎
https://youtu.be/lADMFfQp_ho

 

無駄の裏返しとしての価値

仮想通貨の価値の源泉をマイニングコストと考える場合、いまはエネルギーコスト(電気代)と交換されている。「中央銀行が終わる日」の著者(ちなみに出したかったタイトルは『ふたたびハイエク』だったが、一般向けの書籍にするにあたりハイエクは知らないということで却下されたそう)でもある岩村充先生は、インタビューでPoWはProof of Waste(*)とおっしゃっている。本のなかでも「貨幣を作り出すのに実物的なコストをかけていることは 、限りある地球資源の活用という観点からは 『もったいない 』ことなのですが 、しかし 、限りある資源の価値に依存している P O Wモデルの貨幣の方が 、信用制度に依存している貨幣よりも安心できるという面もある」とのこと。
要はいまはたまたまコンピュータのできが悪いから価値があると。そもそも経済的な価値はくだらないから価値があるという考え方。いいものなら市場取引する必要はない。それだけで成立するので。等価交換や損得感情を超えた価値というものもこの世の中にはいっぱいあって、市場で取引されている財の価値はその源泉が無駄に依存している。乱暴に言えば「仮想通貨の製造原価はエネルギーコストである」。こういう発想はなかったなぁ。

(*)Facing the Inconvenient Truth of Bitcoin
http://fiscofinancialreview.com/en/01/feature2/02.html

恣意的な好意と瞬間の思い

誰かが「そのときに気がつくことはほとんどなくて、振り返ってみるとあのときそうだったと思うことがほとんど。スイッチがいきなり入るというよりは滑らかに気持ちは高まっていくよね。」みたいなことを言っていて、ここから導かれる帰結はふたつ。
ひとつは「好きは意思決定である」ということ。鮮やかな原色がいきなり開けてくることはあまりなくて、パステルカラーの淡い感じで少しずつ染まっていく。誰でも好きになることはできて逆にいうとある一定のラインさえこえていれば決めにいくことはできる。そこまで強い意志がないのであれば、思い込めば思い込めるので意図的に好きになることはできる。なぜか好きというのは自然発生的に湧き上がるものだという先入観があるけど、恣意的に好きになることだってできる。
もうひとつは「その瞬間に感じた気持ちはめちゃくちゃ貴重」ということ。過去の解釈は自由に変えられるので信憑性は低い。どちらかというと自分のなかで折り合いをつけながら理解できるように整理している。裏を返せばオンタイムにのっている臨場感や生身の人間な感じは偽りのないものでめちゃくちゃ大事にしたほうがよい。感じとれることは自覚的にすくいあげてそのときに消化したほうがよい。そのときの感情はそのときにしかないものでとても濃いけど濃いがゆえにすぐ逃げられる。

払う側と使う側の金銭感覚のずれ

見積もりを出されてイラつくのはその会社に対してのこれまでの仕事に対する成果感が低いからか。払うもんは気持ちよく払いたいと思っているがどうも高すぎるんじゃないか、足元みられているんじゃないかと感じると仕事を頼みたくなくなる。悪気なく刺してくるやつはほんとに腹立たしい。払うもんは払う派だけど高いなと思って払うんじゃなくて、相手も儲かってこちらも納得感ある価格で払いたい。担当者からすればわかってねーなこいつと思われるパターンな可能性は否めないけど(国会の予算委員会的な)とはいえ納得して払いたい。

筋肉質な議論

知識が平準化してくると経験値でしか勝てなくなる。一定レベルには誰もが到達する。似たような議論はできるようになる。聞いたことあるような話。ある程度表面をなぞり「ぽい」ことを言うことはできる。その話は間違っていない。けれどなぜか響かない。話がつまらない。なぜか。おそらく自分で考えていないことによる。求められるのはオリジナリティ。一般的にはこう言われているけどじつはこうだよねと。共感のツボを押せるか。もしくは実体験としてこうでしたとフィジカルで押せるか。フィジカルな経験値は本物。濃い。やったことあるかないかでぜんぜん迫力は違う。正しい負荷でかけた時間が多いほうが勝つ。

計画の存在意義

「40年間、経営計画書なるものを作らないまま今日まで来た」(*)ダイソー創業者のことば。まじストリートファイターで超尊敬する。いるんだよなこういうひと。計画はそもそもなんのために存在するのかを考えさせられる。計画は自社のためというより、社員や株主など何かを預かっていて説明責任があるときに必要な気がする。方向性や考えがないと不安になる人もいるし、大切な時間やお金をその会社に預けられるか判断できない。逆にそれが握れていればもしくは信頼されていて不要であれば必ずしも経営にいるわけではない。

ロコンドの中期経営計画(**)が発表された直後に株価が下がり、田中社長は「わかるひとに買ってもらえればよい」というような趣旨の発言をされていたけどほんとそう。短期の値上がりを狙った株主と長期保有したい株主がいるのは当然で前者が多ければ株価は下がる。計画をふまえそのうえで株主は賭けてみたいと思えるかでよく。企業として確実に儲けられるだろう方向に舵をきった経営(投資)判断をしたとしても、マーケットがついてくるとは限らない。会社側にだって選ぶ権利はある。

さいきん気になった2つのできごと。

 

* 2016.4.16 ダイヤモンドオンライン「ダイソー、利益1円でもメーカーが日参する「規模の力」の凄まじさ
http://diamond.jp/articles/-/167226?page=2

** 2018.4.13 株式会社ロコンド「中期経営計画 2月期決算説明会説明資料」
https://www.locondo.co.jp/wp-content/uploads/2018/04/中期経営計画、2018年2月期決算説明会資料.pdf

批判を受け入れる

感情的でない批判は攻撃されていると感じるのではなく、わかりにくいポイントを指摘してくれていると捉えるとよい。お金を預けられている立場やその人のなにがしらを任せられている立場であれば、説明責任がある。説明せずして一任するという関係は良い面と悪い面がある。意思決定が当事者で閉じているので独断ができる。一方で他意を含まないので誤った判断をすることもある。仮に自分の意思決定がステークホルダーインパクトがあってわかってもらえていないのであれば、わかるように説明すべき。わかる人にわかればよいというスタンスでいける場合といけない場合がある。面倒くさがらず批判をきちんと受け入れてわかってもらうという対応が必要。その前提には話せば少なくとも(反対されるかもしれないけど)やりたいことと意図はわかってもらえる、という思いがある。問題はただしく意図が伝わらないこと。