なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

まずい料理を出せるか

金を稼ぐということが全てを正当化する。まずい料理だけどお腹空いている人がいれば需給がバランスしてしまうわけで、三流の料理人でも食事を振る舞える。生きるためにはお金が必要だし、お腹が空いている人も目の前にいるから、どうかなと思いながらもそこで取引が成立させられる。経営者は、常に料理を出し続けなければ自分たちが死に絶えるという状態にさらされていて、生きるために他者をだますこともある。クソ不味い料理なのにお金を貰っているという立ち位置を利用して、いかにも美味しそうにみせるという詐欺に近い行為もする。生きるため。貰えるものはできるだけ貰う。生存本能が発動していると、倫理観が除外されてしまうので、できることならスマートにサバイヴしたい。

なければならない論(続き)

自分のやりたいことにお金をはらってもらえるのはとても幸せなことだと思う。仕事が「嫌だな」と思うのは、やりたくないことだからで、つらくてもやりたいことならやれる。例えば、走るのは疲れるけどなぜかやる。走りたいから。明確な意図がある。もし走ら「なければならない」になると、走りたくないときにも走らされ、結果、やりたくなくなってパフォーマンスが落ちる。同じ行為でも、何かに縛られているのといないのとで大きな差がある。
この「やりたいから」というのはとても重要で、やりたいことを仕事にしている人は、本人の思考と社会の思考が比較的近い。ただし、社会で求められていることが自分のやりたいのであれば簡単だけど、やりたいことが社会で求められるかというと、それは難しい。一歩間違えれば独りよがりのわがままで痛いやつになる。新規性や独自性は大事だけど、それが求められているか。わがままができる人=自分の考えていることが仕事にできている人、は半歩先くらいをいっている。ぶっ飛んでいることはお金になりにくい。
それからもう1つ重要なことは、やりたいことは本人にしかわからないということ。例えば、LINEの友達追加に大きなハードルを感じる人もいれば何も感じない人もいる(最近元カノが知り合いかもに出てきて追加するかしないかで超迷った。と同時にそんなことで迷うなんて…とも思った)。ポジティブやネガティブな感情は勝手に自分で決めている。脳がどう処理するか。なので、あの仕事つまらなさそうだなと思えても本人は楽しんでいることもありその逆もある。客観的に、その仕事が自分にあっているかなんて判断できない。やらなければない、あるいは、やらなくてもよいとかに関係なく、やりたいかやりたくないか。

仕事は金額ではない

1,000万円の仕事は想像できるけど、1億円の仕事はイメージがわかない…とか思ってたけど、金額なんて積み上げれば高くなる。たくさんのことをするだけ。仕事のイメージがわかないのではなくて、どれくらいやれば1億円になるかがわかっていなかった。10万と100万でも同じ。金額が高いからといって特別なことをするわけではない。仕事あたりの単価のほうが遥かに重要。単価が変わらないなら、金額がデカくても膨らんでるだけのこともあり、一概にいい仕事とは言えない。仕事には質がある。

やらないことを決める

打合せをしながら自分が発言しない時間に次の打合せの準備をしている。追い詰められてそうせざるを得ないのはかなり問題だけど、それができてしまうということは、逆に言えば出なくてもいい打ち合わせだったとも言える。追い詰められてはじめて捨てることができたけど、本来的には捨てるという判断は余裕があるときにこそしたほうがよく。死ぬ間際で大事なことがわかったみたいな。時間の有限性をひっぱくして感じることは難しい。同じ結果が得られるのなら低コストのほうがいいに決まっている。プロセスの美徳などいらない。裏口入学できるならしたい。思考実験で5分しかなかったら何をするかとシミュレーションしてみたり。標準的なものにかくれている惰性的なものは多い。

なければならない論

仕事にストレスを感じるのは、能動的にやりたくないことだからか。肉、女、酒、睡眠、運動、音楽…なんかは比較的無意識にちかいかたちで身体が求めているので、考えなくても勝手にできる。それが、やら「なければならない」みたいに縛られると。やりたいやりたくないに関係なく強制執行のような状況に追い込まれ、ストレスフルな状態になる。
人間どうしのやりとりでお金の受け渡しが発生するのは、誰かのために他の誰かが面倒な作業を引き受ける、その手間賃みたいな感覚があり、最初に契約でここまでやるからこれくらいよこせ(あるいは払う)みたいな取り決めをして、問答無用でその面倒な作業を押し付けている面もある。だとすると、引き受けた側は、契約で縛られているので、要はお金をもらうので、やら「なければならない」状態になり、やれなければ、契約変更するか、お金をもらわないか、となる。基本的には依頼する側が、やれないもしくはやりたくない仕事だから、それがお金という指標でその負荷が測られ、バランスされている。
片側にその能力がなくてできない場合には、引き受ける側は交渉する際には有利になるし、誰でもできるような場合には、引き受ける側は不利になる。しかしながら、誰でもできることであっても、みんなやりたくない、みたいな仕事は引き受けてくれる人が少ないので、多めに払う羽目になることもある。
やる側が「だったらお前がやれよ」と言えないのは、やら「なければならない」からであり、やらないのなら仕事は引き受けなければよいのであって、引き受けた以上、なんとかやりきるしかない。生活するためにはお金は必要で、仕事を選べる人であればやりたいことで稼げばよいが、選べない人も世の中にはいて、お金のために押し付けられたことをいやいやながらもやっている人たちにとっては仕事はストレスでしかない。仕事を発注する側が仕事としてやらせ「なければならない」ことなのか、というのはこれまた別の話。

信頼とは何か(続き)

「都市を生きぬくための狡知  タンザニアの零細商人マチンガの民族誌」を読んだ。商売は欲望と人間でまわっているということをありありと感じさせられる。著名な経営者の本なんかよりよほどためになる。実際に起きていることだから迫力がある。何度も読み返したい。以下、信頼に関してのメモ。本から引用。

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ウジャンジャに対する信頼とは、中間卸売商と小売商が互いの苦境や生き抜く必要に対して共感する力を持ち、他者の心を読み取り、賢く行為できることにある。ウジャンジャに対する信頼とは、次のようなものである。「友だちを信じるということは、彼が絶対に嘘をつかないとか、絶対に裏切らないとか、困ったことがあれば、絶対に助けてくれるはずだと信じることではない。そういう「絶対」と言うのは友達に一方的に期待していることであり、彼を信じていると言うことではない。友達を信じると言うことは、彼は困ったらこうするというのは他の人よりも自分が理解しているということだ。」…(略)…しかし、このような個別の人間の性格やウジャンジャな戦術に対応した「人格的信頼」が重視されているからといって、彼らができる限り他者の行為を許容すべきとする、寛容の精神で動いていると見るのは、間違いである。そのような寛容さは、この古着商売にとっては危険なものである。…(略)…「サイレンが見えなかったらダメだ。サイレンと言うのは心がなかったら見えない。相手がどんな人間かわかろうとしなかったら、この商売はやっていけない。カジャンジャはすぐにどこに住んでいるかを聞きたがる。でもそれは、知らなくてもいいことだ。彼らと渡り合っていくためには、心と信念がないとダメだ。ここ(市場)にはいろんな人間がいる。それぞれがいろいろなやり方を知っている。でも嘘がわかったからといって、「嘘でしょう」なんて簡単に言うんじゃない。どうして嘘をついたかを考えるんだ。サイレンが見えなかったら、また助けてはだめだ。カジャンジャも嘘を言えばいいからだ。でもサイレンが見えたら、損をしてもちゃんと助けるんだ。」…(略)…この言葉には、違いの適切な距離に基づいた関係性と、支援のバランスに対する並々ならぬ配慮がある。

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心がバランスしない

人を100%信じられるというやつほど信じられない。他人と自分の考え方が異なるのはあたりまえで、誰かの言うことを全面的に受け入れることは自己を全面的に否定していることであり、そんなことを続けていればどこかで爆発するに決まっている。なので、たいていは一定程度の距離感をもって付き合っていて、自分のなかで線引きをして、自分を守るために、許容でできるところは受け容れ、そうでないところは流している。つまり、流していないという奴は嘘つきだから信用できない。
ビジネスでは当然のことながら、利害関係のあるプレーヤーが対峙し、闘っているわけだから、win-winというきれいごとは側面的な解釈に過ぎず、部分的最適解に過ぎない。例えば戦略的提携というかたちは、ある部分だけの協力関係でそれ以外は譲れないという典型かと。最大限の譲歩ラインは誰にでもあり、それを無視して度を越した要求をしてくる相手、情に訴えかけて押してくる相手は、とてもやっかいで手に負えなくなる。契約でラインを引くか感覚的な相互理解とするかはさておき、結局は、やることとやらないことをうまく線引きをするというのが、事業そのもので、日々の仕事なのかもしれない。
世の中には、騙し合いとまでは言わないが、そういう環境に身を置いて平気なタイプとそうでないタイプがいる。メンタリティの向き不向きはある。平然と自己利益の最大化をやってのけるやつは強く、良心の呵責に耐えきれず、譲歩してしまうやつは、足元をすくわれる。相手から奪うことに対して鈍感になれるか、自分が正しいと信じきって自分に寄せられるか。そこはシビアにでる。個人的にはいわゆる「仕事がデキる」と言われる人ほど厄介で面倒くさくて、友達としては付き合いたくないタイプであるように思える。外から見ている分にはいいが、近付けば近付くほど自分が侵食され、ストレスがかかる。
ところで「本音は違う」とかいう表現をすることがあるが、本音とは何なのか。突き詰めると、じつは自分でもよくわかってないないことではないだろうか。言葉にしたり、思考することと実践することは違う。どう思っていようが、起こったことは確かであり、その解釈はそれぞれ。ある人はその行動のウラにはこういう考えがある、と解釈するし、また別の人はその行動をさせたのは自分の根回しだと信じている。そして本人でさえそれに気づいていない。それでもうまくまわっているのが社会だとすれば、交渉に費やす労力や時間は非効率なのに、なぜなくならないのか。実践は感覚的である。