なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

アートはジョークだ

バンクシー による初監督作品「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」で、ティエリーの成功に対して語った一言。ハイコンテクストな、ときには政治的なメッセージを作品にこめたものが表現的には簡易的なところにおとしこまれるとそのものがコピーできてしまう、文脈でなく。作品としてのインターフェースの区別はつきにくい。表面、表層は同じ。ティエリーはわかりやすくコピーを実行した。価値のつくものとつかないもの。価値のつくものは、誰かが認めたもの。 その誰かが間違っていたらどうなのか。間違っているもあっているもそもそも存在しない。コンテンポラリーアートとして評価されているものと、それを模した二次創作を引くと、残るものは何か。テクニカルで真似ができない領域は、最新のテクノロジーを使っていたりするが、それも陳腐化され、テクノロジーがアートの基盤だとすると時代性 が切り離せない。黒澤明監督の当時、最新の技術を駆使されて撮られた映画よりも、七人の侍のような技術的には難易度の高くなかった映画の方が後世に残って評価されて いる。

受け入れる

新しいことにチャレンジすると、既存の保守的な人たちがわかってくれない。というか、考え方が違うのでコンセンサスは得られない。いま幅を利かせているという強みを押してくるが、将来的には我々のほうが勝つだろうというときに、権力をもっている抵抗勢力(特に日本国内における)に対してどう捉えるか。またか、というかたちでそれをエネルギーに変えるという器の大きさ、こちらが反発して憤りを感じているうちはまだまだ甘いんだなぁと感じた。

手書きの線にかかっているコスト

手書きの線は価値がある。再現性に乏しい。線にはコストがかかっている。コンピュータグラフィックスで簡単に作成できる図形、直線や完全な曲線は、つくりやすい。がそのときの気分やリズムが入れ込まれる線は一回性でプログラミングがしにくい。プロックチェーンのようにコストがかけられているものにら価値がつく。そういう着眼点を大事にしたい。

曲線美

高級車が、AudiLEXUSなどのエクステリアは曲線が気持ちいいので、洗練された印象を持つのだろうか。無駄が削ぎ落とされていてストレスのない曲線は感じとってしまうところがあり、細部にまでこだわって作られたデザイン。なので、車でなくても気持ちがよい曲がり方はあってそういうエッセンスが取り入れられたものはなんであっても美しい。

けどやる

やらなくてもいいことを、やると決めて「何やってんだおれは」とかいいながら、やるということが、遊びに近いので。もしかすると、仕事にそれくらいの感覚をもてるようになると楽しくなるのかもしれない。捉え方によっては、契約などそういう追い込まれ方もするのだけど、究極的にはべつにやらなくたっていい。

他者を積極的に受け入れる

いろんな人や価値観に触れて他人と連携するほうが自分にとってためになるということを心から思えていない。なぜか自分はなんでもできるというような選民思想から抜けられず、心を開いていろんな意見を吸収するということに、抵抗がある。その原因はわからないけど、おそらく誰かと一緒に何かをつくりあげたという経験がないこともある。根っこの部分の価値観とその上にのっかっている経験。経験の広さによって自分で考える幅が変わってくる。

逸脱

こいつ馬鹿なんじゃないか!と思うときは何かしらの価値基準があってそこから外れているから馬鹿なんじゃないかと思っているに過ぎない。行動に対して絶対的な印象はなく。同じことをしたとしても、大人がやったことと子供がやったことは前提が違うから同じ行動でも、馬鹿なのかということも天才かと思うこともある。馬鹿であれというのがイノベーションで叫ばれるが、その本質は現状価値基準からの逸脱ということかと。価値基準を拡張すれば、馬鹿なことも包摂されて馬鹿ではなく、ただ意味はわからない何かがそこには残る。その意味で無駄なことも意味があり、無駄にも価値判断が含まれていて、5一3=2だし、50一48=2だけど、最低効率の前者より、現実は後者のほうが、(よくわからないけど)なんか良い…というようなことも起きたりする。たくさん捨てるのは無駄かという価値基準で見落としていることがあるという一例。抽象的過ぎてわかりにくいが、相対的な世界のなかで、どうしてそう思ったのかをロジックで説明することは大切で、マウンティングおじさんなんかも行動原理のなぜがわかるとかわいらしかったりもする。