なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

Simplicity

どんなにこみいって複雑な問題でもまずはいいのか悪いのかを考える。悪いのであればそうならないようにすべき。現状を否定され、とにかく何かをしなければならないときに間違った方策が示され、みんながそちらに流れかけている。悪化させる方向にアクセルを踏むのは自分たちが苦しくなるだけなので、まずは「悪い」と判断し、変えるにしてもそちらの方向ではないことを示す。悪いことには根拠があるのでその根拠を伝え理解してもらい、しかるべき方向性を示すべき。よくありがちな、ダメなひとを基準に管理しようとして、それがよい人までダメにすることは避けなければならない。レベルの低さに引っ張られすぎたルールはレベルの高い人が離れるトリガーとなり、そのルールをつくることで誰も得をしない。管理者側の自己満足で終わり、結果、いまよりも悪い状態となり、ルールを作った側はロジックが通っているけど、本来の目的を達しないのでこのルールいるんだっけと、外からは思われてしまう。現状認識の誤りから起こる事故。それを知っていながら自己防衛のためにやるなら(行為としてはクソだが)まだしも、ほんとうに頭が悪くてまじめにルール改定を考えているのだとすると、相当痛い。

うまさの外側

うまくできたなと思っても感覚的によくないことがある。それは多分他の人もそうだディテールが仕上がっていてもバランスとしてよくない。知識としてダメなところが言語化できない、わからないだけで心は反応してノーと言っている。それは何かはわからないが、逆に言葉にできなくていいということもある。

視線から入るときはエロい

目で見るときはだいたいエロい感情になっている。セックスしていてもエロい目では見ない。多分視線から入るときは純粋にエロだけを追求していて、性的興奮は視覚だけではないので、世の中にあふれているエロコンテンツはだいたい見られることを意識したものになって、極端に作られている。メンタルとフィジカルに働きかけるという点で、そこにブルーオーシャンがある。風俗なんから完全にフィジカルによっていて、メイド喫茶はメンタルも少しある。エロさを求めて、視線×メンタルはアートにもなり、フィジカル×視線は風俗だ。メンタル×フィジカルは、リアルな恋人で。

実物との差

アート作品で、デジタルで得られた印象とリアルとの差があるのは自明だが、論理的にリアルがよい、悪いの両方があり。デジタルで得られた印象がよくて実際にみたときなーんだとなったり。よいなと思ってそのときにカメラにおさめたけど後から見返したときなかなか伝わらなかったり。逆にみたはずのものがあまり印象にないけど実際にみたときああ凄くいいなと気がつかされたり。観ていたのだけど、作品集で見返したときにあれこんないいものがあったっけと。表現媒体により最適なものがあるわけで、閉じ込められた平面だとその広がりがどうしても弱い。逆にインスタグラムなんかでめちゃくちゃいいねを獲得し過ぎるのはリアルとの乖離があったりで、すごく繊細な色の表現だったりぼかしていたりするポートレートなんかは、圧倒的にリアルが強い。はっきりしたものでも解像度が高いものはデジタルだとカバーしきれない。デジタルでぐちゃぐちゃでいいなと思ったものはリアルにするとそこまでカオスでもなく。

ポストカード

インスタで描いた絵を印刷して送った。なんだか幸せな気分だ。こっちがお金を払っていろいろ準備しているのだけど。良いことをした、自分の作品で誰かぎ喜んでくれる。まったくビジネスとはかけ離れたペイフォワード。他者への貢献。だからなんだと小さいことではある。でもじぶんにとっては違う刺激となり。デジタルで先に繋がってはいるが、たった110円で物理的にアメリカに航空便で送ることができ、届けられる。すごい。低コストで遠方にインフルエンスできる世界を実感。

切り取り

最中の写真や動画を残したくなるのは異常なテンションを切り取りたいという欲求で変態的な趣味ではなくてアーティストがそういう状態を欲しているからかもしれない。ドラッグや音楽と一緒で特殊な開いている状況は希少性が高く、何より創造的な瞬間である可能性があって何か純粋にinterestの文脈での憧れが普通に芽生えるような。

あえてするということ

何かをよいと思うときにはそこを掘り下げると自分が何を好んで何を好まないかがわかる。今年の六本木アートナイトでやっていたRed Ball Project(*) は自分にとってほんとうに素晴らしく。何が素晴らしいかというと、まずもって何の意味もないことだし、論理的にうまく説明がしにくいインスタレーションであること。あるはずのないでっかい赤いボールが街にいきなり現れることで変化が起きる。子どもはボールに体当たりしたりして遊ぶし、写真を撮って誰かに見せたくなるし、みんなちょっとテンションがあがる。Kurt Perschkeのステートメントにも、”the RedBall the work is able to access the imagination embedded in all of us.” “In that moment the person is not a spectator but a participant in the act of imagination. ”と語られている。プロジェクトを企画する人たちも創造的になっているし、観た方も普段あまりオンされないスイッチが確実に入る(と少なくともぼくは思う)。する必要がないことを一生懸命楽しむこと。それこそが遊ぶことで、遊ぶことは私たちの創造性を最大限に引き出してくれる。もちろんパブリックアートがあったとしても感じない人は通り過ぎるだけで、動かされない人もいる。ただ自分はそのちょっとした変化で楽しく豊かになるように思えるから、そこに関心があるのだと思う。

 

* https://www.redballproject.com/