なにそれ経営者のブログ

仕事と彼女と人生観

製品の違いは文化の違い?

何かができなかったとき、アメリカではデバイスのせいにする(無理だとあきらめる、誰がやってもできない)。日本では自分のせいにする(粘り強くなんとかがんばる、技能が劣っている、根性論)。こうした文化的な違いによって、つくられるデバイスが変わるし、その評価も変わるのかもね、という話。

バイス起因だと、誰もが簡単に使えるユニバーサルなデバイスが出てきやすいし、ユーザー起因だと、技術が向上しやすい(なので、日本人はおしなべてみんな器用だから、技術が高いという前提で作られる日本製品もある)。
製品評価の厳しさ、試験データの解釈も、イメージしているユーザーによって変わってくる。同じデバイスで同じデータが出されたとしても、使う側の環境や技能が異なると、そのデータの解釈が変わる。それを良しとするのか、という判断は、使う人の技術をどこまで求めているかによって変わってくる。ユーザーがぽんこつなら厳しい条件のテストが必要だし「これくらいはできるだろう、できて当然」とするなら、そこまで厳密なテストは必要ない。結果的にはどちらも良しという判断だったとしても、その懸念点がイメージしているユーザーによって変わる(わかっている人にはほとんど指示しなくていいが、わからない人には細かいところまで指示しなくちゃいけない、というのに近い)。
リスクベネフィットの考え方として、薬なんかは、たとえ1パーセントの人にしか効かない薬だったとしても、1パーセントの人には効くのだから、1パーセントの人に用途を限定して世の中に出すべきだという考え方があるらしい。条件付きで認める。リスク回避のために限定するのはわかるけど、実際には全ての条件をクリアすることなど不可能なので、どこまでテストするかという厳密さが環境やユーザーに依存してしまうことは避けられない。

主観的な合理性

重要なことは人によって違う、人に動いてもらうためには、自分にはわからないが、そう思わせている背景要因を推測することが大事だ、という趣旨のことを書いたばかりだけど、内田先生が似たようなことをおっしゃっていた。誰しも主観的な一貫性があり、それを探ることが知性であり成熟であると。結婚や恋愛もよくわからない人に対する理解を深めるいう意味では「成熟」が必要か。仕事ではなくプライベートな事案で強制力がないなかで、そこまでして手に入れたいと思えるか、という大前提はあるけども。


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「恋愛は幸せの必要条件なのか?」
ここで大事なのは、女だから折り合いをつける必要があるのではないことだ。性別に関係なく、人として成熟するためのメソッドに近い。
配偶者が示す自分には理解できないさまざまな言動の背後に、「主観的に合理的で首尾一貫した秩序」があることを予測し、それを推論するためには、想像力を駆使し、自分のそれとは違う論理の回路をトレースする能力を結婚は要求します。−−内田樹「呪いの時代」
結婚(恋愛含む)は、相手の中にある「自分とは異なるロジック」を、知恵をふりしぼって理解し、予測を立て、折衝していく営みだという。
そしてこれは、恋愛以外の場に応用できるスキルでもある。
一見するとランダムに生起する事象の背後に反復する定常的な「パターン」の発見こそ、知性のもっとも始原的な形式だからです 。 −−内田樹「呪いの時代」
他者と共生する中で得る知見は、森羅万象への理解を深め、解釈を変え、打つ手を変えせしめるのかもしれない。それが成熟のひとつの有り様だろう。
結婚や恋愛が成就すれば、必ず幸せになれるわけではないが、そこで得るスキルは人生を豊かにする。そういう話だ。

(引用)https://note.mu/yuuuuuiiiii/n/n588b75f204fe

 

意思決定とガバナンス

ステークホルダーが少ないという意味ではプライベートな意思決定のほうがイージーかもしれない。例えば、結婚なんて自分と相手との契約だから、双方でしたいと思えばすればいいし、したくないと思えばしなくていい。政略結婚とか狙うなら話はべつだが、純粋に好きな人と一緒になるという至ってシンプルな問題で、自分の気持ちを最大限に尊重してよい決断のひとつだと思う。

一方で、組織における意思決定は、その決断によって人の人生が変わってしまうとか、この先何年もの生活に影響するとか、決定権者以外のステークホルダーが多いので、そことのバランスを考慮しないと組織が破綻するリスクがある。権力者がYESと言えばYESなのだけど、だからこそ暴走しないためにガバナンスがあり、法律がある。

ステークホルダーは相反する立場なのであまりにも偏った判断をしてしまうと、人が離れ、組織として機能不全に陥る。もちろん小さな組織の場合は、ガバナンスなんて仕組みはない。だから自分たちで察知して感じとるしかない。

同じことをやる場合においても、メンバーが違えば意思決定が変わらざるを得ないのかもしれない。何もしなくてもついてくるようなカリスマでない限り、仲間をエンカレッジする必要があって、少なくとも思いだけでは人はついてこない。重要だと考えていることは人によって違う。無駄だと思うことは、自分が無駄だと思っているに過ぎない。無駄だと思っても相手にとって必要ならやったほうがよいこともある。自分にはわからないけど、何がそうさせているのかを想像することはできる。

できあがっている組織は似たような考え方ができる人たちが集まるので、動かしやすい。だけど、いまいるメンバーでなんとかしないといけないとかいう状況下では振り切るよりも寄り添うほうがスマートなときもある。

引き分けがない

いまさらながら全豪オープンの決勝をみた。一進一退の攻防でどちらが勝ってもおかしくない展開。テニスはちゃんとみたことがなくて、試合の途中からようやく加点される仕組みがわかってきた程度の人間だけど、そんな素人にもわかりやすくいい試合だなと思えるものがあった。フェデラーにとっては相手がナダルだから、ナダルにとっては相手がフェデラーだから、試合のなかで引き出された何かがあったように感じられた。何回かスーパーショットがあって「ああこれは仕方がない」と相手に拍手を贈るシーンが素直に相手を讃えているようにもみえた。ネットにあたって入ったときに「悪いね」というのが超クールにみえた(あとで調べたら、謝るのはテニスではあたりまえらしい)。観客がプレー中は静まりかえり、点が入るたびに拍手や声援が沸き起こり、試合を一緒につくっている感がでていた。とにかくいい試合だったからナダルファンも悔しいけど清々しい気分で終えられたのではないか。それから、直後に表彰式があって、選手本人のスピーチがこれまた素晴らしく、メンタルの強さが感じられた。長い付き合いで、互いに認めあって、尊敬しあっている関係性みたい。フェデラーは7年ぶり5度目、ナダルがもし勝っていたら、8年ぶり2度目だったそう。似たような状況で苦しんでここまできた当事者だからこそわかることがあるのだろう。フェデラーのスピーチ。
「ラファを祝福したい。去年はけがもあったのに、すばらしいカムバックだった。2人とも決勝で会えるとは思っていなかったと思う。4、5カ月前は想像できない状況。君が準優勝できたことが非常にうれしい。テニスはとても厳しいスポーツ。引き分けがない。もし引き分けがあったら、あなたと分かち合ってもいいと感じることができた試合だった。自分のチームに感謝したい。本当にありがとう。最高の仲間。ラファのチームもがんばったに違いない。すばらしいチーム。今後もラファは活躍しなければならない。テニス界が彼を必要としている。スペシャルな夜にしてくれた。全豪はいつも楽しみ。また来年もこの会場でプレーしたい。ありがとう」

適者生存とイノベーションの話

「きずなと思いやりが日本をダメにする」を読んだ。進化生物学者の長谷川先生と社会心理学者の山岸先生の対談本。とくに、第2章「サバンナが産み出した『心』」で、進化論の話はとても示唆的で、社会的な仕組みの設計や環境のデザインなど、もやもやと考えていた自分にとって、ささる箇所がいくつもあり。進化論はイノベーション論としてもそっくりそのまま言えるかと。

◯進化は仕組みによって起きている
◯目的をもって進化したわけではない(特定の形質は偶然の産物)
◯適性は事後的にしかわからない
◯種に優劣はない(生物はみな適者)
◯適応できなかった種は残らない(進化の背後には試行錯誤の繰り返しがある)
◯違う環境でも発達する
◯環境があれば受容できる
◯進化は個体レベルで起きている

日本の中小企業が、これまでに培われた技術を活かして、異業種から新分野に参入しようとしたとき、どうしても技術オリエンテッドになりがちで「こんなことできますが、何か応用できませんかね」と聞くことがあるけど、それで「ああそれなら、これに使えそうだよ」なんて単純にはいかない。そんなふうに表面的にみえている特徴だけをみせたところで、ヒットする確率なんて0に等しい。逆にすごい技術であればあちら側から引き合いがあり、設計書だけ渡され、何に使われるかもわからないまま完璧に品質や納期を守り、値段を叩かれながら取引させられる状態におちいる。そして付加価値はマーケットサイドの企業にもってかれている(例えば、iPhoneの部品点数の6割が日本製らしいが、日本企業の利益は全体の5パーセントとか言われている)。

そうならないよう、中小企業から技術提案するのならば、たくさんの持ちネタを用意しておいて、量的に攻めたほうが結果的にはヒットする。どんなシーズがどのニーズに応用できるかなんて、事前に誰もわからない。たしかに、いま見えているニーズに、つながりのなかった企業がぶつかればヒットして、短期的には喜ばれるかもしれないけど、そんなのは単なる情報格差をお金に換えているだけで、ぼくらがやりたいことはそうではない。人と人とが出会うことによって、偶発的に「あ、それならこうしてみてはどうか」と双方で共創し、発想の飛躍を起こす。目の前の売上に追われている人たちにとっては、偶然にまかせるなんてそんな余裕はないのは承知のうえで、人の創造力にアプローチすべきだと思っている。
かなりコンセプチャルな話にはなるが、日本企業の競争力の源泉は、どこにでもいる従業員の発想力や創造力である。日本には1人の天才によるイノベーションは起こしにくいが、誰かと誰かがつながることによってみんなでイノベーションを起こすことはできそうな気がする。これまでの歴史がそうだったから。ポテンシャルを引き出すためには、仕組みの設計や環境のデザインがいる。適者生存は「結果的にそうなった」という考え方だが、もし結果を戦略的に起こすことができたとすれば、その戦略家ができあがったゲームにおいて優位に立つことは自明。

本気かブラフか

東芝さんは何を守ろうとしているのか。いまの経営陣はだめだったんだから「おれたち無能でしたごめんなさい、だから外から代わりの人連れてきます、後はよろしく」で経営に執着しないほうがいい気がするんだけどなぁ。難しいカードをあえてきっている。結論は出ていながら、少なくともそのプロセスをふんだことで反対勢力に「だから言ったでしょ、だめだって」と抑え込むための事実を作っているのか。そうせざるを得ない背景要因が絡み合っているのか。それとも、本気で抱き合わせで本体への資金援助をしてもらおうと思っているのか。強引に進めればわだかまりは残るけど、いつかはわかってくれるはず。というかそう思い込むしかないのでは。個人的には殴られてじわじわ残るよりスパッと斬られてはやく完治するほうが好き。痛みの種類はさることながら、その痛みを誰が負うのか、そして最終的にだれを守るのか。守りたいのか。取締役会ではどんな会話がなされているのだろう。コンフリクトしたとき、どうにか前に進むために権力がある。権力は正しく使えば機能する。決めはど真ん中でシンプルにいったほうがいい。

デザイン思考

誰かが考えた仕組みで動くのか。自ら仕組みをつくるのか。客の要望にこたえるのか。客をついてこさせるのか。後者のほうが明らかに競争力がある。お金を稼げる。ゲームのルールを変えたものにだけ、集まる情報があり、依頼される案件がある。
仕組みを変えようとしている過程では、ちょっとずつ萌芽がみえはじめる。今までと同じやり方で刈り取ってしまうと育たない。仕組みが完全に近づくまでは、どちらかといえば萌芽が自発的に育つよう環境を整えるほうに注力したほうがよい。手を掛けるとリソースがいくらあっても足りなくなる。
臨界点をこえれば、勝手に誰かが攻略法を考え出して、自分たちの外の力で動き出す。多くの人間が関わり出せば従わざるを得ない。それが社会の流れであり、その流れは誰かによって仕掛けられている。競争をしているやつらより、競争をさせてるやつのほうが強い。
仕組みを設計した人間は、なぜそうなったのか。なにがうまくいって何がうまくいかなかったのか。すべてわかる。できた後に関わる人間は、外からみればどちらも同じようにみえるけど、考え方までは引き継がれない。仕組みの本質が理解できていないと、その仕組みを育てることはできない。